まま微《かす》かに動くのが見える。主人はうーん、むにゃむにゃと云いながら例の赤本を突き飛ばして、黒い腕を皮癬病《ひぜんや》みのようにぼりぼり掻《か》く。そのあとは静まり返って、枕をはずしたなり寝てしまう。寒月だと云ったのは全く我知らずの寝言と見える。陰士はしばらく椽側《えんがわ》に立ったまま室内の動静をうかがっていたが、主人夫婦の熟睡しているのを見済《みすま》してまた片足を畳の上に入れる。今度は寒月だと云う声も聞えぬ。やがて残る片足も踏み込む。一穂《いっすい》の春灯《しゅんとう》で豊かに照らされていた六畳の間《ま》は、陰士の影に鋭どく二分せられて柳行李《やなぎごうり》の辺《へん》から吾輩の頭の上を越えて壁の半《なか》ばが真黒になる。振り向いて見ると陰士の顔の影がちょうど壁の高さの三分の二の所に漠然《ばくぜん》と動いている。好男子も影だけ見ると、八《や》つ頭《がしら》の化《ば》け物《もの》のごとくまことに妙な恰好《かっこう》である。陰士は細君の寝顔を上から覗《のぞ》き込んで見たが何のためかにやにやと笑った。笑い方までが寒月君の模写であるには吾輩も驚いた。
 細君の枕元には四寸角の一尺五六
前へ 次へ
全750ページ中276ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング