Nに同意する。
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「昨日は一刻のひまを偸《ぬす》み、東風子にトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]の御馳走《ごちそう》を致さんと存じ候処《そろところ》、生憎《あいにく》材料払底の為《た》め其意を果さず、遺憾《いかん》千万に存候《ぞんじそろ》。……」
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そろそろ例の通りになって来たと主人は無言で微笑する。
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「明日は其男爵の歌留多会《かるたかい》、明後日は審美学協会の新年宴会、其明日は鳥部教授歓迎会、其又明日は……」
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うるさいなと、主人は読みとばす。
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「右の如く謡曲会、俳句会、短歌会、新体詩会等、会の連発にて当分の間は、のべつ幕無しに出勤致し候《そろ》為め、不得已《やむをえず》賀状を以て拝趨《はいすう》の礼に易《か》え候段《そろだん》不悪《あしからず》御宥恕《ごゆうじょ》被下度候《くだされたくそろ》。……」
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別段くるにも及ばんさと、主人は手紙に返事をする。
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「今度御光来の節は久し振りにて晩餐でも供し度《たき》心得に御座|候《そろ》。寒厨《かんちゅう》何の珍味も無之候《これなくそうら》えども、せめてはトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]でもと只今より心掛|居候《おりそろ》。……」
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まだトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]を振り廻している。失敬なと主人はちょっとむっとする。
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「然《しか》しトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]は近頃材料払底の為め、ことに依ると間に合い兼候《かねそろ》も計りがたきにつき、其節は孔雀《くじゃく》の舌《した》でも御風味に入れ可申候《もうすべくそろ》。……」
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両天秤《りょうてんびん》をかけたなと主人は、あとが読みたくなる。
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「御承知の通り孔雀一羽につき、舌肉の分量は小指の半《なか》ばにも足らぬ程故|健啖《けんたん》なる大兄の胃嚢《いぶくろ》を充《み》たす為には……」
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うそをつけと主人は打ち遣《や》ったようにいう。
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「是非共二三十羽の孔雀を捕獲致さざる可《べか》らずと存候《ぞんじそろ》。然る所孔雀は動物園、浅草花屋敷等には、ちらほら見受け候えども、普通の鳥屋|抔《など》には一向《いっこう》見当り不申《もうさず》、苦心《くしん》此事《このこと》に御座|候《そろ》。……」
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独りで勝手に苦心しているのじゃないかと主人は毫《ごう》も感謝の意を表しない。
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「此孔雀の舌の料理は往昔《おうせき》羅馬《ローマ》全盛の砌《みぎ》り、一時非常に流行致し候《そろ》ものにて、豪奢《ごうしゃ》風流の極度と平生よりひそかに食指《しょくし》を動かし居候《おりそろ》次第|御諒察《ごりょうさつ》可被下候《くださるべくそろ》。……」
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何が御諒察だ、馬鹿なと主人はすこぶる冷淡である。
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「降《くだ》って十六七世紀の頃迄は全欧を通じて孔雀は宴席に欠くべからざる好味と相成居候《あいなりおりそろ》。レスター伯がエリザベス女皇《じょこう》をケニルウォースに招待致し候節《そろせつ》も慥《たし》か孔雀を使用致し候様《そろよう》記憶|致候《いたしそろ》。有名なるレンブラントが画《えが》き候《そろ》饗宴の図にも孔雀が尾を広げたる儘《まま》卓上に横《よこた》わり居り候《そろ》……」
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孔雀の料理史をかくくらいなら、そんなに多忙でもなさそうだと不平をこぼす。
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「とにかく近頃の如く御馳走の食べ続けにては、さすがの小生も遠からぬうちに大兄の如く胃弱と相成《あいな》るは必定《ひつじょう》……」
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大兄のごとくは余計だ。何も僕を胃弱の標準にしなくても済むと主人はつぶやいた。
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「歴史家の説によれば羅馬人《ローマじん》は日に二度三度も宴会を開き候由《そろよし》。日に二度も三度も方丈《ほうじょう》の食饌《しょくせん》に就き候えば如何なる健胃の人にても消化機能に不調を醸《かも》すべく、従って自然は大兄の如く……」
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また大兄のごとくか、失敬な。
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「然《しか》るに贅沢《ぜいたく》と衛生とを両立せしめんと研究を尽したる彼等は不相当に多量の滋味を貪《むさぼ》ると同時に胃腸を常態に保持するの必要を認め、ここに一の秘法を案出致し候《そろ》……」
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はてねと主人は急に熱心になる。
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