ワでも文芸家の気でいる。「うまく癪が起りましたか」と主人は警句を吐く。「癪だけは第一回には、ちと無理でした」と東風子も警句を吐く。「ところで君は何の役割でした」と主人が聞く。「私《わたく》しは船頭」「へー、君が船頭」君にして船頭が務《つと》まるものなら僕にも見番くらいはやれると云ったような語気を洩《も》らす。やがて「船頭は無理でしたか」と御世辞のないところを打ち明ける。東風子は別段癪に障った様子もない。やはり沈着な口調で「その船頭でせっかくの催しも竜頭蛇尾《りゅうとうだび》に終りました。実は会場の隣りに女学生が四五人下宿していましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読会があるという事を、どこかで探知して会場の窓下へ来て傍聴していたものと見えます。私《わたく》しが船頭の仮色《こわいろ》を使って、ようやく調子づいてこれなら大丈夫と思って得意にやっていると、……つまり身振りがあまり過ぎたのでしょう、今まで耐《こ》らえていた女学生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚ろいた事も驚ろいたし、極《きま》りが悪《わ》るい事も悪るいし、それで腰を折られてから、どうしても後《あと》がつづけられないので、とうとうそれ限《ぎ》りで散会しました」第一回としては成功だと称する朗読会がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると笑わずにはいられない。覚えず咽喉仏《のどぼとけ》がごろごろ鳴る。主人はいよいよ柔かに頭を撫《な》でてくれる。人を笑って可愛がられるのはありがたいが、いささか無気味なところもある。「それは飛んだ事で」と主人は正月早々|弔詞《ちょうじ》を述べている。「第二回からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、今日出ましたのも全くそのためで、実は先生にも一つ御入会の上御尽力を仰ぎたいので」「僕にはとても癪なんか起せませんよ」と消極的の主人はすぐに断わりかける。「いえ、癪などは起していただかんでもよろしいので、ここに賛助員の名簿が」と云いながら紫の風呂敷から大事そうに小菊版《こぎくばん》の帳面を出す。「これへどうか御署名の上|御捺印《ごなついん》を願いたいので」と帳面を主人の膝《ひざ》の前へ開いたまま置く。見ると現今知名な文学博士、文学士連中の名が行儀よく勢揃《せいぞろい》をしている。「はあ賛成員にならん事もありませんが、どんな義務があるのですか」と牡蠣先生《かきせんせい》は掛念《けねん》の体《てい》に見える。「義務と申して別段是非願う事もないくらいで、ただ御名前だけを御記入下さって賛成の意さえ御表《おひょう》し被下《くださ》ればそれで結構です」「そんなら這入《はい》ります」と義務のかからぬ事を知るや否や主人は急に気軽になる。責任さえないと云う事が分っておれば謀叛《むほん》の連判状へでも名を書き入れますと云う顔付をする。加之《のみならず》こう知名の学者が名前を列《つら》ねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんな事に出合った事のな「主人にとっては無上の光栄であるから返事の勢のあるのも無理はない。「ちょっと失敬」と主人は書斎へ印をとりに這入る。吾輩はぼたりと畳の上へ落ちる。東風子は菓子皿の中のカステラ[#「カステラ」に傍点]をつまんで一口に頬張《ほおば》る。モゴモゴしばらくは苦しそうである。吾輩は今朝の雑煮《ぞうに》事件をちょっと思い出す。主人が書斎から印形《いんぎょう》を持って出て来た時は、東風子の胃の中にカステラが落ちついた時であった。主人は菓子皿のカステラが一切《ひときれ》足りなくなった事には気が着かぬらしい。もし気がつくとすれば第一に疑われるものは吾輩であろう。
東風子が帰ってから、主人が書斎に入って机の上を見ると、いつの間《ま》にか迷亭先生の手紙が来ている。
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「新年の御慶《ぎょけい》目出度《めでたく》申納候《もうしおさめそろ》。……」
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いつになく出が真面目だと主人が思う。迷亭先生の手紙に真面目なのはほとんどないので、この間などは「其後《そのご》別に恋着《れんちゃく》せる婦人も無之《これなく》、いず方《かた》より艶書《えんしょ》も参らず、先《ま》ず先《ま》ず無事に消光|罷《まか》り在り候《そろ》間、乍憚《はばかりながら》御休心|可被下候《くださるべくそろ》」と云うのが来たくらいである。それに較《くら》べるとこの年始状は例外にも世間的である。
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「一寸参堂仕り度《たく》候えども、大兄の消極主義に反して、出来得る限り積極的方針を以《もっ》て、此千古|未曾有《みぞう》の新年を迎うる計画故、毎日毎日目の廻る程の多忙、御推察願上|候《そろ》……」
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なるほどあの男の事だから正月は遊び廻るのに忙がしいに違いないと、主人は腹の中で迷亭
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