よ。そんな事をするのがわるいとしても、あんなに心配させちゃ、若い男を一人殺してしまいますよ。ありゃ頭は大きいが人相はそんなにわるくありません。鼻なんかぴくぴくさせて可愛いです」
「君も大分《だいぶ》迷亭見たように呑気《のんき》な事を云うね」
「何、これが時代思潮です、先生はあまり昔《むか》し風《ふう》だから、何でもむずかしく解釈なさるんです」
「しかし愚《ぐ》じゃないか、知りもしないところへ、いたずらに艶書《えんしょ》を送るなんて、まるで常識をかいてるじゃないか」
「いたずらは、たいがい常識をかいていまさあ。救っておやんなさい。功徳《くどく》になりますよ。あの容子《ようす》じゃ華厳《けごん》の滝へ出掛けますよ」
「そうだな」
「そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある大僧《おおぞう》共がそれどころじゃない、わるいいたずらをして知らん面《かお》をしていますよ。あんな子を退校させるくらいなら、そんな奴らを片《かた》っ端《ぱし》から放逐でもしなくっちゃ不公平でさあ」
「それもそうだね」
「それでどうです上野へ虎の鳴き声をききに行くのは」
「虎かい」
「ええ、聞きに行きましょう。実は二三日中《にさんちうち》にちょっと帰国しなければならない事が出来ましたから、当分どこへも御伴《おとも》は出来ませんから、今日は是非いっしょに散歩をしようと思って来たんです」
「そうか帰るのかい、用事でもあるのかい」
「ええちょっと用事が出来たんです。――ともかくも出ようじゃありませんか」
「そう。それじゃ出ようか」
「さあ行きましょう。今日は私が晩餐《ばんさん》を奢《おご》りますから、――それから運動をして上野へ行くとちょうど好い刻限です」としきりに促《うな》がすものだから、主人もその気になって、いっしょに出掛けて行った。あとでは細君と雪江さんが遠慮のない声でげらげらけらけらからからと笑っていた。
十一
床の間の前に碁盤を中に据《す》えて迷亭君と独仙君が対坐している。
「ただはやらない。負けた方が何か奢《おご》るんだぜ。いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君は例のごとく山羊髯《やぎひげ》を引っ張りながら、こう云《い》った。
「そんな事をすると、せっかくの清戯《せいぎ》を俗了《ぞくりょう》してしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗《せいはい》を度外において、白雲の自然に岫《しゅう》を出でて冉々《ぜんぜん》たるごとき心持ちで一局を了してこそ、個中《こちゅう》の味《あじわい》はわかるものだよ」
「また来たね。そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然《えんぜん》たる列仙伝中の人物だね」
「無絃《むげん》の素琴《そきん》を弾じさ」
「無線の電信をかけかね」
「とにかく、やろう」
「君が白を持つのかい」
「どっちでも構わない」
「さすがに仙人だけあって鷹揚《おうよう》だ。君が白なら自然の順序として僕は黒だね。さあ、来たまえ。どこからでも来たまえ」
「黒から打つのが法則だよ」
「なるほど。しからば謙遜《けんそん》して、定石《じょうせき》にここいらから行こう」
「定石にそんなのはないよ」
「なくっても構わない。新奇発明の定石だ」
吾輩は世間が狭いから碁盤と云うものは近来になって始めて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙に出来ている。広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目が眩《くら》むほどごたごたと黒白《こくびゃく》の石をならべる。そうして勝ったとか、負けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる。高が一尺四方くらいの面積だ。猫の前足で掻《か》き散らしても滅茶滅茶になる。引き寄せて結べば草の庵《いおり》にて、解くればもとの野原なりけり。入らざるいたずらだ。懐手《ふところで》をして盤を眺めている方が遥《はる》かに気楽である。それも最初の三四十|目《もく》は、石の並べ方では別段|目障《めざわ》りにもならないが、いざ天下わけ目と云う間際《まぎわ》に覗《のぞ》いて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー云っている。窮屈だからと云って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。碁を発明したものは人間で、人間の嗜好《しこう》が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると云っても差支《さしつか》えない。人間の性質が碁石の運命で推知《すいち》する事が出来るものとすれば、人間とは天空海濶《てんくうかいかつ》の世界を、我からと縮めて、己《おの》れの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、
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