F《けしき》も見せない。ただじっとして赤くなっているばかりである。これはご苦労な事だ。なるべく二銭五厘の湯銭を活用しようと云う精神からして、かように赤くなるのだろうが、早く上がらんと湯気《ゆけ》にあがるがと主思《しゅうおも》いの吾輩は窓の棚《たな》から少なからず心配した。すると主人の一軒置いて隣りに浮いてる男が八の字を寄せながら「これはちと利《き》き過ぎるようだ、どうも背中《せなか》の方から熱い奴がじりじり湧《わ》いてくる」と暗に列席の化物に同情を求めた。「なあにこれがちょうどいい加減です。薬湯はこのくらいでないと利《き》きません。わたしの国なぞではこの倍も熱い湯へ這入ります」と自慢らしく説き立てるものがある。「一体この湯は何に利くんでしょう」と手拭を畳《たた》んで凸凹頭《でこぼこあたま》をかくした男が一同に聞いて見る。「いろいろなものに利きますよ。何でもいいてえんだからね。豪気《ごうぎ》だあね」と云ったのは瘠《や》せた黄瓜《きゅうり》のような色と形とを兼ね得たる顔の所有者である。そんなに利く湯なら、もう少しは丈夫そうになれそうなものだ。「薬を入れ立てより、三日目か四日目がちょうどいいようです。今日等《きょうなど》は這入り頃ですよ」と物知り顔に述べたのを見ると、膨《ふく》れ返った男である。これは多分|垢肥《あかぶと》りだろう。「飲んでも利きましょうか」とどこからか知らないが黄色い声を出す者がある。「冷《ひ》えた後《あと》などは一杯飲んで寝ると、奇体《きたい》に小便に起きないから、まあやって御覧なさい」と答えたのは、どの顔から出た声か分らない。
湯槽《ゆぶね》の方はこれぐらいにして板間《いたま》を見渡すと、いるわいるわ絵にもならないアダムがずらりと並んで各《おのおの》勝手次第な姿勢で、勝手次第なところを洗っている。その中にもっとも驚ろくべきのは仰向《あおむ》けに寝て、高い明《あ》かり取《とり》を眺《なが》めているのと、腹這《はらば》いになって、溝《みぞ》の中を覗《のぞ》き込んでいる両アダムである。これはよほど閑《ひま》なアダムと見える。坊主が石壁を向いてしゃがんでいると後《うし》ろから、小坊主がしきりに肩を叩《たた》いている。これは師弟の関係上|三介《さんすけ》の代理を務《つと》めるのであろう。本当の三介もいる。風邪《かぜ》を引いたと見えて、このあついのにちゃんちゃんを着て、小判形《こばんなり》の桶《おけ》からざあと旦那の肩へ湯をあびせる。右の足を見ると親指の股に呉絽《ごろ》の垢擦《あかす》りを挟《はさ》んでいる。こちらの方では小桶《こおけ》を慾張って三つ抱え込んだ男が、隣りの人に石鹸《シャボン》を使え使えと云いながらしきりに長談議をしている。何だろうと聞いて見るとこんな事を言っていた。「鉄砲は外国から渡ったもんだね。昔は斬り合いばかりさ。外国は卑怯だからね、それであんなものが出来たんだ。どうも支那じゃねえようだ、やっぱり外国のようだ。和唐内《わとうない》の時にゃ無かったね。和唐内はやはり清和源氏さ。なんでも義経が蝦夷《えぞ》から満洲へ渡った時に、蝦夷の男で大変|学《がく》のできる人がくっ付いて行ったてえ話しだね。それでその義経のむすこが大明《たいみん》を攻めたんだが大明じゃ困るから、三代将軍へ使をよこして三千人の兵隊を借《か》してくれろと云うと、三代様《さんだいさま》がそいつを留めておいて帰さねえ。――何とか云ったっけ。――何でも何とか云う使だ。――それでその使を二年とめておいてしまいに長崎で女郎《じょろう》を見せたんだがね。その女郎に出来た子が和唐内さ。それから国へ帰って見ると大明は国賊に亡ぼされていた。……」何を云うのかさっぱり分らない。その後《うし》ろに二十五六の陰気な顔をした男が、ぼんやりして股の所を白い湯でしきりにたでている。腫物《はれもの》か何かで苦しんでいると見える。その横に年の頃は十七八で君とか僕とか生意気な事をべらべら喋舌《しゃべ》ってるのはこの近所の書生だろう。そのまた次に妙な背中《せなか》が見える。尻の中から寒竹《かんちく》を氓オ込んだように背骨《せぼね》の節が歴々《ありあり》と出ている。そうしてその左右に十六むさしに似たる形が四個ずつ行儀よく並んでいる。その十六むさしが赤く爛《ただ》れて周囲《まわり》に膿《うみ》をもっているのもある。こう順々に書いてくると、書く事が多過ぎて到底吾輩の手際《てぎわ》にはその一斑《いっぱん》さえ形容する事が出来ん。これは厄介な事をやり始めた者だと少々|辟易《へきえき》していると入口の方に浅黄木綿《あさぎもめん》の着物をきた七十ばかりの坊主がぬっと見《あら》われた。坊主は恭《うやうや》しくこれらの裸体の化物に一礼して「へい、どなた様も、毎日相変らずありがとう存じます。今日は
前へ
次へ
全188ページ中104ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング