傍点]られますよ」と注意する。「少しいつけ[#「いつけ」に傍点]る方が薬ですよ、奥さん」「しかし顔の讒訴《ざんそ》などをなさるのは、あまり下等ですわ、誰だって好んであんな鼻を持ってる訳でもありませんから――それに相手が婦人ですからね、あんまり苛《ひど》いわ」と鼻子の鼻を弁護すると、同時に自分の容貌《ようぼう》も間接に弁護しておく。「何ひどいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ迷亭君」「愚人かも知れんが、なかなかえら者だ、大分《だいぶ》引き掻《か》かれたじゃないか」「全体教師を何と心得ているんだろう」「裏の車屋くらいに心得ているのさ。ああ云う人物に尊敬されるには博士になるに限るよ、一体博士になっておかんのが君の不了見《ふりょうけん》さ、ねえ奥さん、そうでしょう」と迷亭は笑いながら細君を顧《かえり》みる。「博士なんて到底駄目ですよ」と主人は細君にまで見離される。「これでも今になるかも知れん、軽蔑《けいべつ》するな。貴様なぞは知るまいが昔《むか》しアイソクラチスと云う人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリスが傑作を出して天下を驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニジスは八十で妙詩を作った。おれだって……」「馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか」と細君はちゃんと主人の寿命を予算している。「失敬な、――甘木さんへ行って聞いて見ろ――元来御前がこんな皺苦茶《しわくちゃ》な黒木綿《くろもめん》の羽織や、つぎだらけの着物を着せておくから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから迷亭の着ているような奴を着るから出しておけ」「出しておけって、あんな立派な御召《おめし》はござんせんわ。金田の奥さんが迷亭さんに叮嚀になったフは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。着物の咎《とが》じゃございません」と細君うまく責任を逃《の》がれる。
主人は伯父さん[#「伯父さん」に傍点]と云う言葉を聞いて急に思い出したように「君に伯父があると云う事は、今日始めて聞いた。今までついに噂《うわさ》をした事がないじゃないか、本当にあるのかい」と迷亭に聞く。迷亭は待ってたと云わぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物《がんぶつ》でねえ――やはりその十九世紀から連綿と今日《こんにち》まで生き延びているんだがね」と主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白い事ばかりおっしゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃ無いです。頭にちょん髷《まげ》を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を被《かぶ》れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです――寒いから、もっと寝《ね》ていらっしゃいと云うと、人間は四時間寝れば充分だ。四時間以上寝るのは贅沢《ぜいたく》の沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠《ねむ》たくていかなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境《しょきょう》に入《い》ってはなはだ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寝られなくなるなあ当り前でさあ。修業も糸瓜《へちま》も入《い》ったものじゃないのに当人は全く克己《こっき》の力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扇《てっせん》をもって出るんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。ところがせんだって妙な事がありましてね」と今度は細君の方へ話しかける。「へえー」と細君が差《さ》し合《あい》のない返事をする。「此年《ことし》の春突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと云うんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着ると云う返事が来ました。二十三日に静岡で祝捷会《しゅくしょうかい》があるからそれまでに間《ま》に合うように、至急調達しろと云う命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸《だいまる》へ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋《しろきや》と間違えたんだあね」「寸法をゥ計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たるところさ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇《てっせん》を持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろう
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