り、まだ填《つ》めないところが妙だ。今だに空也餅|引掛所《ひっかけどころ》になってるなあ奇観だぜ」「歯を填める小遣《こづかい》がないので欠けなりにしておくんですか、または物好きで欠けなりにしておくんでしょうか」「何も永く前歯欠成《まえばかけなり》を名乗る訳でもないでしょうから御安心なさいよ」と迷亭の機嫌はだんだん回復してくる。鼻子はまた問題を改める。「何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが」「端書《はがき》なら沢山あります、御覧なさい」と主人は書斎から三四十枚持って来る。「そんなに沢山拝見しないでも――その内の二三枚だけ……」「どれどれ僕が好いのを撰《よ》ってやろう」と迷亭先生は「これなざあ面白いでしょう」と一枚の絵葉書を出す。「おや絵もかくんでございますか、なかなか器用ですね、どれ拝見しましょう」と眺めていたが「あらいやだ、狸《たぬき》だよ。何だって撰りに撰って狸なんぞかくんでしょうね――それでも狸と見えるから不思議だよ」と少し感心する。「その文句を読んで御覧なさい」と主人が笑いながら云う。鼻子は下女が新聞を読むように読み出す。「旧暦の歳《とし》の夜《よ》、山の狸が園遊会をやって盛《さかん》に舞踏します。その歌に曰《いわ》く、来《こ》いさ、としの夜《よ》で、御山婦美《おやまふみ》も来《く》まいぞ。スッポコポンノポン」「何ですこりゃ、人を馬鹿にしているじゃございませんか」と鼻子は不平の体《てい》である。「この天女《てんにょ》は御気に入りませんか」と迷亭がまた一枚出す。見ると天女が羽衣《はごろも》を着て琵琶《びわ》を弾《ひ》いている。「この天女の鼻が少し小さ過ぎるようですが」「何、それが人並ですよ、鼻より文句を読んで御覧なさい」文句にはこうある。「昔《むか》しある所に一人の天文学者がありました。ある夜《よ》いつものように高い台に登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現われ、この世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので、天文学者は身に沁《し》む寒さも忘れて聞き惚《ほ》れてしまいました。朝見るとその天文学者の死骸《しがい》に霜《しも》が真白に降っていました。これは本当の噺《はなし》だと、あのうそつきの爺《じい》やが申しました」「何の事ですこりゃ、意味も何もないじゃありませんか、これでも理学士で通るんですかね。ちっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですがねえ」と寒月君さんざんにやられる。迷亭は面白半分に「こりゃどうです」と三枚目を出す。今度は活版で帆懸舟《ほかけぶね》が印刷してあって、例のごとくその下に何か書き散らしてある。「よべの泊《とま》りの十六小女郎《じゅうろくこじょろ》、親がないとて、荒磯《ありそ》の千鳥、さよの寝覚《ねざめ》の千鳥に泣いた、親は船乗り波の底」「うまいのねえ、感心だ事、話せるじゃありませんか」「話せますかな」「ええこれなら三味線に乗りますよ」「三味線に乗りゃ本物だ。こりゃ如何《いかが》です」と迷亭は無暗《むやみ》に出す。「いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのは沢山で、そんなに野暮《やぼ》でないんだと云う事は分りましたから」と一人で合点している。鼻子はこれで寒月に関する大抵の質問を卒《お》えたものと見えて、「これははなはだ失礼を致しました。どうか私の参った事は寒月さんへは内々に願います」と得手勝手《えてかって》な要求をする。寒月の事は何でも聞かなければならないが、自分の方の事は一切寒月へ知らしてはならないと云う方針と見える。迷亭も主人も「はあ」と気のない返事をすると「いずれその内御礼は致しますから」と念を入れて言いながら立つ。見送りに出た両人《ふたり》が席へ返るや否や迷亭が「ありゃ何だい」と云うと主人も「ありゃ何だい」と双方から同じ問をかける。奥の部屋で細君が怺《こら》え切れなかったと見えてクツクツ笑う声が聞える。迷亭は大きな声を出して「奥さん奥さん、月並の標本が来ましたぜ。月並もあのくらいになるとなかなか振《ふる》っていますなあ。さあ遠慮はいらんから、存分御笑いなさい」
主人は不満な口気《こうき》で「第一気に喰わん顔だ」と悪《にく》らしそうに云うと、迷亭はすぐ引きうけて「鼻が顔の中央に陣取って乙《おつ》に構えているなあ」とあとを付ける。「しかも曲っていらあ」「少し猫背《ねこぜ》だね。猫背の鼻は、ちと奇抜《きばつ》過ぎる」と面白そうに笑う。「夫《おっと》を剋《こく》する顔だ」と主人はなお口惜《くや》しそうである。「十九世紀で売れ残って、二十世紀で店曝《たなざら》しに逢うと云う相《そう》だ」と迷亭は妙な事ばかり云う。ところへ妻君が奥の間《ま》から出て来て、女だけに「あんまり悪口をおっしゃると、また車屋の神《かみ》さんにいつけ[#「いつけ」に
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