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「彼等は食後必ず入浴|致候《いたしそろ》。入浴後一種の方法によりて浴前《よくぜん》に嚥下《えんか》せるものを悉《ことごと》く嘔吐《おうと》し、胃内を掃除致し候《そろ》。胃内廓清《いないかくせい》の功を奏したる後《のち》又食卓に就《つ》き、飽《あ》く迄珍味を風好《ふうこう》し、風好し了《おわ》れば又湯に入りて之《これ》を吐出《としゅつ》致候《いたしそろ》。かくの如くすれば好物は貪《むさ》ぼり次第貪り候《そうろう》も毫《ごう》も内臓の諸機関に障害を生ぜず、一挙両得とは此等の事を可申《もうすべき》かと愚考|致候《いたしそろ》……」
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 なるほど一挙両得に相違ない。主人は羨《うらや》ましそうな顔をする。
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「廿世紀の今日《こんにち》交通の頻繁《ひんぱん》、宴会の増加は申す迄もなく、軍国多事征露の第二年とも相成|候折柄《そろおりから》、吾人戦勝国の国民は、是非共|羅馬《ローマ》人に傚《なら》って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し候《そろ》事と自信|致候《いたしそろ》。左《さ》もなくば切角《せっかく》の大国民も近き将来に於て悉《ことごと》く大兄の如く胃病患者と相成る事と窃《ひそ》かに心痛|罷《まか》りあり候《そろ》……」
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 また大兄のごとくか、癪《しゃく》に障《さわ》る男だと主人が思う。
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「此際吾人西洋の事情に通ずる者が古史伝説を考究し、既に廃絶せる秘法を発見し、之を明治の社会に応用致し候わば所謂《いわば》禍《わざわい》を未萌《みほう》に防ぐの功徳《くどく》にも相成り平素|逸楽《いつらく》を擅《ほしいまま》に致し候《そろ》御恩返も相立ち可申《もうすべく》と存候《ぞんじそろ》……」
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 何だか妙だなと首を捻《ひね》る。
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「依《よっ》て此間|中《じゅう》よりギボン、モンセン、スミス等諸家の著述を渉猟《しょうりょう》致し居候《おりそうら》えども未《いま》だに発見の端緒《たんしょ》をも見出《みいだ》し得ざるは残念の至に存候《ぞんじそろ》。然し御存じの如く小生は一度思い立ち候事《そろこと》は成功するまでは決して中絶|仕《つかまつ》らざる性質に候えば嘔吐方《おうとほう》を再興致し候《そろ》も遠からぬうちと信じ居り
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