ナも丁稚《でっち》でも、その人物が出てきたようにやるんです」「じゃ、まあ芝居見たようなものじゃありませんか」「ええ衣装《いしょう》と書割《かきわり》がないくらいなものですな」「失礼ながらうまく行きますか」「まあ第一回としては成功した方だと思います」「それでこの前やったとおっしゃる心中物というと」「その、船頭が御客を乗せて芳原《よしわら》へ行く所《とこ》なんで」「大変な幕をやりまオたな」と教師だけにちょっと首を傾《かたむ》ける。鼻から吹き出した日の出[#「日の出」に傍点]の煙りが耳を掠《かす》めて顔の横手へ廻る。「なあに、そんなに大変な事もないんです。登場の人物は御客と、船頭と、花魁《おいらん》と仲居《なかい》と遣手《やりて》と見番《けんばん》だけですから」と東風子は平気なものである。主人は花魁という名をきいてちょっと苦《にが》い顔をしたが、仲居、遣手、見番という術語について明瞭の智識がなかったと見えてまず質問を呈出した。「仲居というのは娼家《しょうか》の下婢《かひ》にあたるものですかな」「まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で、遣手というのが女部屋《おんなべや》の助役《じょやく》見たようなものだろうと思います」東風子はさっき、その人物が出て来るように仮色《こわいろ》を使うと云った癖に遣手や仲居の性格をよく解しておらんらしい。「なるほど仲居は茶屋に隷属《れいぞく》するもので、遣手は娼家に起臥《きが》する者ですね。次に見番[#「見番」に傍点]と云うのは人間ですかまたは一定の場所を指《さ》すのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか」「見番は何でも男の人間だと思います」「何を司《つかさ》どっているんですかな」「さあそこまではまだ調べが届いておりません。その内調べて見ましょう」これで懸合をやった日には頓珍漢《とんちんかん》なものが出来るだろうと吾輩は主人の顔をちょっと見上げた。主人は存外真面目である。「それで朗読家は君のほかにどんな人が加わったんですか」「いろいろおりました。花魁が法学士のK君でしたが、口髯《くちひげ》を生やして、女の甘ったるいせりふを使《つ》かうのですからちょっと妙でした。それにその花魁が癪《しゃく》を起すところがあるので……」「朗読でも癪を起さなくっちゃ、いけないんですか」と主人は心配そうに尋ねる。「ええとにかく表情が大事ですから」と東風子はどこ
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