大事だから警察で保護するんだが、その時分の国民は生きてるのが苦痛だから、巡査が慈悲のために打《ぶ》ち殺してくれるのさ。もっとも少し気の利《き》いたものは大概自殺してしまうから、巡査に打殺《ぶちころ》されるような奴はよくよく意気地なしか、自殺の能力のない白痴もしくは不具者に限るのさ。それで殺されたい人間は門口《かどぐち》へ張札をしておくのだね。なにただ、殺されたい男ありとか女ありとか、はりつけておけば巡査が都合のいい時に巡《まわ》ってきて、すぐ志望通り取計ってくれるのさ。死骸かね。死骸はやっぱり巡査が車を引いて拾ってあるくのさ。まだ面白い事が出来てくる。……」
「どうも先生の冗談《じょうだん》は際限がありませんね」と東風君は大《おおい》に感心している。すると独仙君は例の通り山羊髯《やぎひげ》を気にしながら、のそのそ弁じ出した。
「冗談と云えば冗談だが、予言と云えば予言かも知れない。真理に徹底しないものは、とかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫《ほうまつ》の夢幻《むげん》を永久の事実と認定したがるものだから、少し飛び離れた事を云うと、すぐ冗談にしてしまう」
「燕雀《えんじゃく》焉《いずく》んぞ大鵬《たいほう》の志《こころざし》を知らんやですね」と寒月君が恐れ入ると、独仙君はそうさと云わぬばかりの顔付で話を進める。
「昔《むか》しスペインにコルドヴァと云う所があった……」
「今でもありゃしないか」
「あるかも知れない。今昔の問題はとにかく、そこの風習として日暮れの鐘がお寺で鳴ると、家々の女がことごとく出て来て河へ這入《はい》って水泳をやる……」
「冬もやるんですか」
「その辺はたしかに知らんが、とにかく貴賤老若《きせんろうにゃく》の別なく河へ飛び込む。但《ただ》し男子は一人も交らない。ただ遠くから見ている。遠くから見ていると暮色蒼然《ぼしょくそうぜん》たる波の上に、白い肌《はだえ》が模糊《もこ》として動いている……」
「詩的ですね。新体詩になりますね。なんと云う所ですか」と東風君は裸体《らたい》が出さえすれば前へ乗り出してくる。
「コルドヴァさ。そこで地方の若いものが、女といっしょに泳ぐ事も出来ず、さればと云って遠くから判然その姿を見る事も許されないのを残念に思って、ちょっといたずらをした……」
「へえ、どんな趣向だい」といたずらと聞いた迷亭君は大《おおい》に嬉しがる。

前へ 次へ
全375ページ中358ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング