《さ》っきからすでにしびれ[#「しびれ」に傍点]が切れかかって少々足の先は困難を訴えているのである。それにもかかわらず敷かない。布団が手持無沙汰に控《ひか》えているにもかかわらず敷かない。主人がさあお敷きと云うのに敷かない。厄介な毬栗坊主だ。このくらい遠慮するなら多人数《たにんず》集まった時もう少し遠慮すればいいのに、学校でもう少し遠慮すればいいのに、下宿屋でもう少し遠慮すればいいのに。すまじきところへ気兼《きがね》をして、すべき時には謙遜《けんそん》しない、否|大《おおい》に狼藉《ろうぜき》を働らく。たちの悪るい毬栗坊主だ。
 ところへ後《うし》ろの襖《ふすま》をすうと開けて、雪江さんが一碗の茶を恭《うやうや》しく坊主に供した。平生なら、そらサヴェジ・チーが出たと冷《ひ》やかすのだが、主人一人に対してすら痛み入《い》っている上へ、妙齢の女性《にょしょう》が学校で覚え立ての小笠原流《おがさわらりゅう》で、乙《おつ》に気取った手つきをして茶碗を突きつけたのだから、坊主は大《おおい》に苦悶《くもん》の体《てい》に見える。雪江さんは襖《ふすま》をしめる時に後ろからにやにやと笑った。して見ると女は同年輩でもなかなかえらいものだ。坊主に比すれば遥《はる》かに度胸が据《す》わっている。ことに先刻《さっき》の無念にはらはらと流した一滴の紅涙《こうるい》のあとだから、このにやにやがさらに目立って見えた。
 雪江さんの引き込んだあとは、双方無言のまま、しばらくの間は辛防《しんぼう》していたが、これでは業《ぎょう》をするようなものだと気がついた主人はようやく口を開いた。
「君は何とか云ったけな」
「古井《ふるい》……」
「古井? 古井何とかだね。名は」
「古井|武右衛門《ぶえもん》」
「古井武右衛門――なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昔の名だ。四年生だったね」
「いいえ」
「三年生か?」
「いいえ、二年生です」
「甲の組かね」
「乙です」
「乙なら、わたしの監督だね。そうか」と主人は感心している。実はこの大頭は入学の当時から、主人の眼についているんだから、決して忘れるどころではない。のみならず、時々は夢に見るくらい感銘した頭である。しかし呑気《のんき》な主人はこの頭とこの古風な姓名とを連結して、その連結したものをまた二年乙組に連結する事が出来なかったのである。だからこの夢に
前へ 次へ
全375ページ中312ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング