て、どうしたんだ」
「だって苛いわ」
「愚《ぐ》だな、同じ事ばかり繰り返している」
「叔父さんだって同じ事ばかり繰り返しているじゃありませんか」
「御前が繰り返すから仕方がないさ。現にいらないと云ったじゃないか」
「そりゃ云いましたわ。いらない事はいらないんですけれども、還すのは厭《いや》ですもの」
「驚ろいたな。没分暁《わからずや》で強情なんだから仕方がない。御前の学校じゃ論理学を教えないのか」
「よくってよ、どうせ無教育なんですから、何とでもおっしゃい。人のものを還せだなんて、他人だってそんな不人情な事は云やしない。ちっと馬鹿竹《ばかたけ》の真似でもなさい」
「何の真似をしろ?」
「ちと正直に淡泊《たんぱく》になさいと云うんです」
「お前は愚物の癖にやに強情だよ。それだから落第するんだ」
「落第したって叔父さんに学資は出して貰やしないわ」
 雪江さんは言《げん》ここに至って感に堪《た》えざるもののごとく、潸然《さんぜん》として一掬《いっきく》の涙《なんだ》を紫の袴《はかま》の上に落した。主人は茫乎《ぼうこ》として、その涙がいかなる心理作用に起因するかを研究するもののごとく、袴の上と、俯《う》つ向いた雪江さんの顔を見つめていた。ところへ御三《おさん》が台所から赤い手を敷居越に揃《そろ》えて「お客さまがいらっしゃいました」と云う。「誰が来たんだ」と主人が聞くと「学校の生徒さんでございます」と御三は雪江さんの泣顔を横目に睨《にら》めながら答えた。主人は客間へ出て行く。吾輩も種取り兼《けん》人間研究のため、主人に尾《び》して忍びやかに椽《えん》へ廻った。人間を研究するには何か波瀾がある時を択《えら》ばないと一向《いっこう》結果が出て来ない。平生は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張合のないくらい平凡である。しかしいざとなるとこの平凡が急に霊妙なる神秘的作用のためにむくむくと持ち上がって奇なもの、変なもの、妙なもの、異《い》なもの、一と口に云えば吾輩猫共から見てすこぶる後学になるような事件が至るところに横風《おうふう》にあらわれてくる。雪江さんの紅涙《こうるい》のごときはまさしくその現象の一つである。かくのごとく不可思議、不可測《ふかそく》の心を有している雪江さんも、細君と話をしているうちはさほどとも思わなかったが、主人が帰ってきて油壺を抛《ほう》り出すやいなや
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