Bわれ切られじと思うところに心を置けば、切られじと思うところに心を取らるるなり。人の構《かまえ》に心を置けば、人の構に心を取らるるなり。とかく心の置きどころはないとある」
「よく忘れずに暗誦《あんしょう》したものですね。伯父さんもなかなか記憶がいい。長いじゃありませんか。苦沙弥君分ったかい」
「なるほど」と今度もなるほどですましてしまった。
「なあ、あなた、そうでござりましょう。心をどこに置こうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば……」
「伯父さん苦沙弥君はそんな事は、よく心得ているんですよ。近頃は毎日書斎で精神の修養ばかりしているんですから。客があっても取次に出ないくらい心を置き去りにしているんだから大丈夫ですよ」
「や、それは御奇特《ごきどく》な事で――御前などもちとごいっしょにやったらよかろう」
「へへへそんな暇はありませんよ。伯父さんは自分が楽なからだだもんだから、人も遊んでると思っていらっしゃるんでしょう」
「実際遊んでるじゃないかの」
「ところが閑中《かんちゅう》自《おのず》から忙《ぼう》ありでね」
「そう、粗忽《そこつ》だから修業をせんといかないと云うのよ、忙中|自《おのずか》ら閑《かん》ありと云う成句《せいく》はあるが、閑中自ら忙ありと云うのは聞いた事がない。なあ苦沙弥さん」
「ええ、どうも聞きませんようで」
「ハハハハそうなっちゃあ敵《かな》わない。時に伯父さんどうです。久し振りで東京の鰻《うなぎ》でも食っちゃあ。竹葉《ちくよう》でも奢《おご》りましょう。これから電車で行くとすぐです」
「鰻も結構だが、今日はこれからすい[#「すい」に傍点]原《はら》へ行く約束があるから、わしはこれで御免を蒙《こうむ》ろう」
「ああ杉原《すぎはら》ですか、あの爺《じい》さんも達者ですね」
「杉原《すぎはら》ではない、すい[#「すい」に傍点]原《はら》さ。御前はよく間違ばかり云って困る。他人の姓名を取り違えるのは失礼だ。よく気をつけんといけない」
「だって杉原《すぎはら》とかいてあるじゃありませんか」
「杉原《すぎはら》と書いてすい[#「すい」に傍点]原《はら》と読むのさ」
「妙ですね」
「なに妙な事があるものか。名目読《みょうもくよ》みと云って昔からある事さ。蚯蚓《きゅういん》を和名《わみょう》でみみず[#「みみず」に傍点]
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