ナある。柔術の怪しいものは、どうか自分より弱い奴に、ただの一|返《ぺん》でいいから出逢って見たい、素人《しろうと》でも構わないから抛《な》げて見たいと至極危険な了見を抱《いだ》いて町内をあるくのもこれがためである。その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから略する事に致す。聞きたければ鰹節《かつぶし》の一折《ひとおり》も持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる。以上に説くところを参考して推論して見ると、吾輩の考《かんがえ》では奥山《おくやま》の猿《さる》と、学校の教師がからかうには一番手頃である。学校の教師をもって、奥山の猿に比較しては勿体《もったい》ない。――猿に対して勿体ないのではない、教師に対して勿体ないのである。しかしよく似ているから仕方がない、御承知の通り奥山の猿は鎖《くさり》で繋《つな》がれている。いくら歯をむき出しても、きゃっきゃっ騒いでも引き掻《か》かれる気遣《きづかい》はない。教師は鎖で繋がれておらない代りに月給で縛られている。いくらからかったって大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐる事はない。辞職をする勇気のあるようなものなら最初から教師などをして生徒の御守《おも》りは勤めないはずである。主人は教師である。落雲館の教師ではないが、やはり教師に相違ない。からかう[#「からかう」に傍点]には至極《しごく》適当で、至極|安直《あんちょく》で、至極無事な男である。落雲館の生徒は少年である。からかう[#「からかう」に傍点]事は自己の鼻を高くする所以《ゆえん》で、教育の功果として至当に要求してしかるべき権利とまで心得ている。のみならずからかい[#「からかい」に傍点]でもしなければ、活気に充《み》ちた五体と頭脳を、いかに使用してしかるべきか十分《じっぷん》の休暇中|持《も》てあまして困っている連中である。これらの条件が備われば主人は自《おのず》からからかわれ[#「からかわれ」に傍点]、生徒は自からからかう[#「からかう」に傍点]、誰から云わしても毫《ごう》も無理のないところである。それを怒《おこ》る主人は野暮《やぼ》の極、間抜の骨頂でしょう。これから落雲館の生徒がいかに主人にからかったか、これに対して主人がいかに野暮を極めたかを逐一かいてご覧に入れる。
諸君は四つ目垣とはいかなる者であるか御承知であろう。風通しのいい、簡便な垣である。吾輩などは目の間から自
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