が主人|苦沙弥《くしゃみ》先生を圧倒しようとあせるごとく、西行《さいぎょう》に銀製の吾輩を進呈するがごとく、西郷隆盛君の銅像に勘公が糞《ふん》をひるようなものである。機を見るに敏なる吾輩はとうてい駄目と見て取ったから、奇麗さっぱりと椽側へ引き上げた。もう晩飯の時刻だ。運動もいいが度を過ごすと行《い》かぬ者で、からだ全体が何となく緊《しま》りがない、ぐたぐたの感がある。のみならずまだ秋の取り付きで運動中に照り付けられた毛ごろもは、西日を思う存分吸収したと見えて、ほてってたまらない。毛穴から染《し》み出す汗が、流れればと思うのに毛の根に膏《あぶら》のようにねばり付く。背中《せなか》がむずむずする。汗でむずむずするのと蚤《のみ》が這《は》ってむずむずするのは判然と区別が出来る。口の届く所なら噛《か》む事も出来る、足の達する領分は引き掻《か》く事も心得ノあるが、脊髄《せきずい》の縦に通う真中と来たら自分の及ぶ限《かぎり》でない。こう云う時には人間を見懸けて矢鱈《やたら》にこすり付けるか、松の木の皮で充分摩擦術を行うか、二者その一を択《えら》ばんと不愉快で安眠も出来兼ねる。人間は愚《ぐ》なものであるから、猫なで声で――猫なで声は人間の吾輩に対して出す声だ。吾輩を目安《めやす》にして考えれば猫なで声ではない、なでられ声である――よろしい、とにかく人間は愚なものであるから撫《な》でられ声で膝の傍《そば》へ寄って行くと、大抵の場合において彼もしくは彼女を愛するものと誤解して、わが為《な》すままに任せるのみか折々は頭さえ撫《な》でてくれるものだ。しかるに近来吾輩の毛中《もうちゅう》にのみと号する一種の寄生虫が繁殖したので滅多《めった》に寄り添うと、必ず頸筋《くびすじ》を持って向うへ抛《ほう》り出される。わずかに眼に入《い》るか入《い》らぬか、取るにも足らぬ虫のために愛想《あいそ》をつかしたと見える。手を翻《ひるがえ》せば雨、手を覆《くつがえ》せば雲とはこの事だ。高がのみの千|疋《びき》や二千疋でよくまあこんなに現金な真似が出来たものだ。人間世界を通じて行われる愛の法則の第一条にはこうあるそうだ。――自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし。――人間の取り扱が俄然豹変《がぜんひょうへん》したので、いくら痒《か》ゆくても人力を利用する事は出来ん。だから第二の方法によって松皮《しょうひ
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