と云うのは本当に存在している婦人なのですか」と聞く。「へえ、この前迷亭先生とごいっしょに朗読会へ招待した婦人の一人です。ついこの御近所に住んでおります。実はただ今詩集を見せようと思ってちょっと寄って参りましたが、生憎《あいにく》先月から大磯へ避暑に行って留守でした」と真面目くさって述べる。「苦沙弥君、これが二十世紀なんだよ。そんな顔をしないで、早く傑作でも朗読するさ。しかし東風君この捧げ方は少しまずかったね。このあえかに[#「あえかに」に傍点]と云う雅言《がげん》は全体何と言う意味だと思ってるかね」「蚊弱《かよわ》いとかたよわく[#「たよわく」に傍点]と云う字だと思います」「なるほどそうも取れん事はないが本来の字義を云うと危う気に[#「危う気に」に傍点]と云う事だぜ。だから僕ならこうは書かないね」「どう書いたらもっと詩的になりましょう」「僕ならこうさ。世の人に似ずあえかに見え給う富子嬢の鼻の下[#「鼻の下」に傍点]に捧ぐとするね。わずかに三字のゆきさつだが鼻の下[#「鼻の下」に傍点]があるのとないのとでは大変感じに相違があるよ」「なるほど」と東風君は解《げ》しかねたところを無理に納得《なっとく》した体《てい》にもてなす。
 主人は無言のままようやく一頁をはぐっていよいよ巻頭第一章を読み出す。
[#ここから2字下げ]
倦《う》んじて薫《くん》ずる香裏《こうり》に君の
霊か相思の煙のたなびき
おお我、ああ我、辛《から》きこの世に
あまく得てしか熱き口づけ
[#ここで字下げ終わり]
「これは少々僕には解しかねる」と主人は嘆息しながら迷亭に渡す。「これは少々振い過ぎてる」と迷亭は寒月に渡す。寒月は「なああるほど」と云って東風君に返す。
「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日《こんにち》の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。註釈や訓義《くんぎ》は学究のやる事で私共の方では頓《とん》と構いません。せんだっても私の友人で送籍《そうせき》と云う男が一夜[#「一夜」に傍点]という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧《もうろう》として取り留《と》めがつかないの
前へ 次へ
全375ページ中183ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング