ょうがい》忘れられませんぜ」「おお、いやだ、誰が食べるもんですか」「そこで充分|御饌《ごぜん》も頂戴し、寒さも忘れるし、娘の顔も遠慮なく見るし、もう思いおく事はないと考えていると、御休みなさいましと云うので、旅の労《つか》れもある事だから、仰《おおせ》に従って、ごろりと横になると、すまん訳だが前後を忘却して寝てしまった」「それからどうなさいました」と今度は細君の方から催促する。「それから明朝《あくるあさ》になって眼を覚《さま》してからが失恋でさあ」「どうかなさったんですか」「いえ別にどうもしやしませんがね。朝起きて巻煙草《まきたばこ》をふかしながら裏の窓から見ていると、向うの筧《かけひ》の傍《そば》で、薬缶頭《やかんあたま》が顔を洗っているんでさあ」「爺さんか婆さんか」と主人が聞く。「それがさ、僕にも識別しにくかったから、しばらく拝見していて、その薬缶がこちらを向く段になって驚ろいたね。それが僕の初恋をした昨夜《ゆうべ》の娘なんだもの」「だって娘は島田に結《い》っているとさっき云ったじゃないか」「前夜は島田さ、しかも見事な島田さ。ところが翌朝は丸薬缶さ」「人を馬鹿にしていらあ」と主人は例によって天井の方へ視線をそらす。「僕も不思議の極《きょく》内心少々|怖《こわ》くなったから、なお余所《よそ》ながら容子《ようす》を窺《うかが》っていると、薬缶はようやく顔を洗い了《おわ》って、傍《かた》えの石の上に置いてあった高島田の鬘《かずら》を無雑作に被《かぶ》って、すましてうちへ這入《はい》ったんでなるほどと思った。なるほどとは思ったようなもののその時から、とうとう失恋の果敢《はか》なき運命をかこつ身となってしまった」「くだらない失恋もあったもんだ。ねえ、寒月君、それだから、失恋でも、こんなに陽気で元気がいいんだよ」と主人が寒月君に向って迷亭君の失恋を評すると、寒月君は「しかしその娘が丸薬缶でなくってめでたく東京へでも連れて御帰りになったら、先生はなお元気かも知れませんよ、とにかくせっかくの娘が禿《はげ》であったのは千秋《せんしゅう》の恨事《こんじ》ですねえ。それにしても、そんな若い女がどうして、毛が抜けてしまったんでしょう」「僕もそれについてはだんだん考えたんだが全く蛇飯を食い過ぎたせいに相違ないと思う。蛇飯てえ奴はのぼせるからね」「しかしあなたは、どこも何ともなくて結構でご
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