飯と云やあ、僕はまだ御飯をいただかないんですがね」と平気な顔をして聞きもせぬ事を吹聴《ふいちょう》する。「おやまあ、時分どきだのにちっとも気が付きませんで――それじゃ何もございませんが御茶漬でも」「いえ御茶漬なんか頂戴しなくっても好いですよ」「それでも、あなた、どうせ御口に合うようなものはございませんが」と細君少々厭味を並べる。迷亭は悟ったもので「いえ御茶漬でも御湯漬でも御免蒙るんです。今途中で御馳走を誂《あつ》らえて来ましたから、そいつを一つここでいただきますよ」ととうてい素人《しろうと》には出来そうもない事を述べる。細君はたった一言《ひとこと》「まあ!」と云ったがそのまあ[#「まあ」に傍点]の中《うち》には驚ろいたまあ[#「まあ」に傍点]と、気を悪るくしたまあ[#「まあ」に傍点]と、手数《てすう》が省けてありがたいと云うまあ[#「まあ」に傍点]が合併している。
 ところへ主人が、いつになくあまりやかましいので、寝つき掛った眠をさかに扱《こ》かれたような心持で、ふらふらと書斎から出て来る。「相変らずやかましい男だ。せっかく好い心持に寝ようとしたところを」と欠伸交《あくびまじ》りに仏頂面《ぶっちょうづら》をする。「いや御目覚《おめざめ》かね。鳳眠《ほうみん》を驚かし奉ってはなはだ相済まん。しかしたまには好かろう。さあ坐りたまえ」とどっちが客だか分らぬ挨拶をする。主人は無言のまま座に着いて寄木細工《よせぎざいく》の巻煙草《まきたばこ》入から「朝日」を一本出してすぱすぱ吸い始めたが、ふと向《むこう》の隅《すみ》に転がっている迷亭の帽子に眼をつけて「君帽子を買ったね」と云った。迷亭はすぐさま「どうだい」と自慢らしく主人と細君の前に差し出す。「まあ奇麗だ事。大変目が細かくって柔らかいんですね」と細君はしきりに撫で廻わす。「奥さんこの帽子は重宝《ちょうほう》ですよ、どうでも言う事を聞きますからね」と拳骨《げんこつ》をかためてパナマの横ッ腹をぽかりと張り付けると、なるほど意のごとく拳《こぶし》ほどな穴があいた。細君が「へえ」と驚く間《ま》もなく、この度《たび》は拳骨を裏側へ入れてうんと突ッ張ると釜《かま》の頭がぽかりと尖《と》んがる。次には帽子を取って鍔《つば》と鍔とを両側から圧《お》し潰《つぶ》して見せる。潰れた帽子は麺棒《めんぼう》で延《の》した蕎麦《そば》のように平たくな
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