ば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。我々があの人は肉刺《フォーク》の持ちようも知らないとか、小刀《ナイフ》の持ちようも心得ないとか何とか云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より強いからである。我々の方が強ければあっちこっちの真似《まね》をさせて主客の位地《いち》を易《か》えるのは容易の事である。がそう行かないからこっちで先方の真似をする。しかも自然天然に発展してきた風俗を急に変える訳にいかぬから、ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるよりほかに仕方がない。自然と内に醗酵《はっこう》して醸《かも》された礼式でないから取ってつけたようではなはだ見苦しい。これは開化じゃない、開化の一端とも云えないほどの些細《ささい》な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々のやっている事は内発的でない、外発的である。これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相|上滑《うわすべ》りの開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎《つつし》まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚《うぬぼ》れてみても上滑《うわすべ》りと評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止《よ》しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑《の》んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。
 それでは子供が背《せな》に負われて大人といっしょに歩くような真似をやめて、じみちに発展の順序を尽して進む事はどうしてもできまいかという相談が出るかも知れない。そういう御相談が出れば私も無い事もないと御答をする。が西洋で百年かかってようやく今日に発展した開化を日本人が十年に年期をつづめて、しかも空虚の譏《そしり》を免《まぬ》かれるように、誰が見ても内発的であると認めるような推移をやろうとすればこれまた由々しき結果に陥《おちい》るのであります。百年の経験を十年で上滑《うわすべ》りもせずやりとげようとするならば年限が十分一に縮《ちぢ》まるだけわが活力は十倍に増さなければならんのは算術の初歩を心得たものさえ容易《たやす》く首肯するところである。これは学問を例に御話をするのが一番早分りである。西洋の新らしい説などを生噛《なまかじ》りにして法螺《ほら》を吹くのは論外として、本当に自
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