火を掛けての、馬も具足も皆焼いてしもうた。何とあちらのものは豪興をやるではないか」と話し終ってカラカラと心地よげに笑う。
「そう云う国へ行って見よと云うに主も余程意地張りだなあ」と又ウィリアムの胸の底へ探りの石を投げ込む。
「そんな国に黒い眼、黒い髪の男は無用じゃ」とウィリアムは自ら嘲る如くに云う。
「やはりその金色の髪の主の居る所が恋しいと見えるな」
「言うまでもない」とウィリアムはきっとなって幻影の盾を見る。中庭の隅《すみ》で鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、ヤスリ[#「ヤスリ」に傍点]の響が聞え出す。夜はいつの間にかほのぼのと明け渡る。
七日《なぬか》に逼《せま》る戦は一日の命を縮めて愈六日となった。ウィリアムはシーワルドの勧むるままにクララへの手紙を認《したた》める。心が急《せ》くのと、わきが騒がしいので思う事の万分《まんぶ》一も書けぬ。「御身の髪は猶わが懐にあり、只この使と逃げ落ちよ、疑えば魔多し」とばかりで筆を擱《お》く。この手紙を受取ってクララに渡す者はいずこの何者か分らぬ。その頃|流行《はや》る楽人の姿となって夜鴉の城に忍び込んで、戦あるべき前の晩にクララを奪い出して舟に乗せる。万一手順が狂えば隙《すき》を見て城へ火をかけても志を遂げる。これだけの事はシーワルドから聞いた、そのあとは……幻影の盾のみ知る。
逢うはうれし、逢わぬは憂し。憂し嬉しの源から珠を欺く涙が湧いて出る。この清き者に何故流れるぞと問えば知らぬと云う。知らぬとは自然と云う意か。マリアの像の前に、跪《ひざまず》いて祈願を凝せるウィリアムが立ち上ったとき、長い睫《まつげ》がいつもより重た気に見えたが、なぜ重いのか彼にも分らなかった。誠は誠を自覚すれどもその他を知らぬ。その夜の夢に彼れは五彩の雲に乗るマリアを見た。マリアと見えたるはクララを祭れる姿で、クララとは地に住むマリアであろう。祈らるる神、祈らるる人は異なれど、祈る人の胸には神も人も同じ願の影法師に過ぎぬ。祭る聖母は恋う人の為め、人恋うは聖母に跪く為め。マリアとも云え、クララとも云え。ウィリアムの心の中に二つのものは宿らぬ。宿る余地あらばこの恋は嘘《うそ》の恋じゃ。夢の続か中庭の隅で鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、ヤスリ[#「ヤスリ」に傍点]の響が聞えて、例の如く夜が明ける。戦は愈せまる。
五日目から四日目に移るは俯《ふ》せ
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