顔が笑っている。去年分れた時の顔と寸分|違《たが》わぬ。顔の周囲を巻いている髪の毛が……ウィリアムは呪われたる人の如くに、千里の遠きを眺めている様な眼付で石の如く盾を見ている。日の加減か色が真青だ。……顔の周囲を巻いている髪の毛が、先《さ》っきから流れる水に漬けた様にざわざわと動いている。髪の毛ではない無数の蛇の舌が断間なく震動して五寸の円の輪を揺り廻るので、銀地に絹糸の様に細い炎が、見えたり隠れたり、隠れたり見えたり、渦を巻いたり、波を立てたりする。全部が一度に動いて顔の周囲を廻転するかと思うと、局部が纔《わず》かに動きやんで、すぐその隣りが動く。見る間に次へ次へと波動が伝わる様にもある。動く度《たび》に舌の摩《す》れ合う音でもあろう微かな声が出る。微かではあるが只一つの声ではない、漸《ようや》く鼓膜に響く位の静かな音のうちに――無数の音が交っている。耳に落つる一の音が聴けば聴く程多くの音がかたまって出来上った様に明かに聞き取られる。盾の上に動く物の数多きだけ、音の数も多く、又その動くものの定かに見えぬ如く、出る音も微《かす》かであららかには鳴らぬのである。……ウィリアムは手に下げたるクララの金毛を三たび盾に向って振りながら「盾! 最後の望は幻影《まぼろし》の盾にある」と叫んだ。
 戦は潮《うしお》の河に上る如く次第に近付いて来る。鉄を打つ音、鋼《はがね》を鍛《きた》える響、槌《つち》の音、やすり[#「やすり」に傍点]の響は絶えず中庭の一隅に聞える。ウィリアムも人に劣らじと出陣の用意はするが、時には殺伐な物音に耳を塞《ふさ》いで、高き角櫓《すみやぐら》に上《のぼ》って遙《はる》かに夜鴉の城の方を眺める事がある。霧深い国の事だから眼に遮《さえ》ぎる程の物はなくても、天気の好い日に二十|哩《マイル》先は見えぬ。一面に茶渋を流した様な曠《こう》野《や》が逼《せま》らぬ波を描いて続く間に、白金《しろがね》の筋が鮮《あざや》かに割り込んでいるのは、日毎の様に浅瀬を馬で渡した河であろう。白い流れの際立ちて目を牽《ひ》くに付けて、夜鴉の城はあの見当だなと見送る。城らしきものは霞《かすみ》の奥に閉じられて眸底《ぼうてい》には写らぬが、流るる銀《しろがね》の、烟《けむり》と化しはせぬかと疑わるまで末広に薄れて、空と雲との境に入る程は、翳《かざ》したる小手《こて》の下より遙かに双の眼
前へ 次へ
全28ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング