は空吹く風の音にもざわつく。夜となく日となく磨きに磨く刃の冴《さえ》は、人を屠《ほふ》る遺恨の刃を磨くのである。君の為め国の為めなる美しき名を藉《か》りて、毫釐《ごうり》の争に千里の恨を報ぜんとする心からである。正義と云い人道と云うは朝|嵐《あらし》に翻がえす旗にのみ染め出《いだ》すべき文字《もんじ》で、繰り出す槍の穂先には瞋恚《しんい》の※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほむら》が焼け付いている。狼は如何にして鴉と戦うべき口実を得たか知らぬ。鴉は何を叫んで狼を誣《し》ゆる積りか分らぬ。只時ならぬ血潮とまで見えて迸《ほと》ばしりたる酒の雫《しずく》の、胸を染めたる恨を晴さでやとルーファスがセント・ジョージに誓えるは事実である。尊き銘は剣にこそ彫れ、抜き放ちたる光の裏《うち》に遠吠ゆる狼を屠らしめたまえとありとあらゆるセイントに夜鴉の城主が祈念を凝《こら》したるも事実である。両家の間の戦は到底免かれない。いつ[#「いつ」に傍点]というだけが問題である。
 末の世の尽きて、その末の世の残るまでと誓いたる、クララの一門に弓をひくはウィリアムの好まぬところである。手創《てきず》負いて斃《たお》れんとする父とたよりなき吾《われ》とを、敵の中より救いたるルーファスの一家《いっけ》に事ありと云う日に、膝《ひざ》を組んで動かぬのはウィリアムの猶好まぬところである。封建の代のならい、主と呼び従と名乗る身の危きに赴《おもむ》かで、人に卑怯《ひきょう》と嘲《あざ》けらるるは彼の尤《もっと》も好まぬところである。甲《かぶと》も着よう、鎧《よろい》も繕おう、槍も磨こう、すわという時は真先に行こう……然しクララはどうなるだろう。負ければ打死をする。クララには逢えぬ。勝てばクララが死ぬかも知れぬ。ウィリアムは覚えず空に向って十字を切る。今の内姿を窶《やつ》して、クララと落ち延びて北の方《かた》へでも行こうか。落ちた後で朋輩《ほうばい》が何というだろう。ルーファスが人でなしと云うだろう。内懐《うちぶところ》からクララのくれた一束ねの髪の毛を出して見る。長い薄色の毛が、麻を砧《きぬた》で打って柔かにした様にゆるくうねってウィリアムの手から下がる。ウィリアムは髪を見詰めていた視線を茫然《ぼうぜん》とわきへそらす。それが器械的に壁の上へ落ちる。壁の上にかけてある盾の真中で優しいクララの
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