打ち出したので、余の謡《うたい》が大崩《おおくずれ》になったという一段を編輯《へんしゅう》へ廻した。実は本当の元日なら、余の謡はもっと上手になってる訳だから、其の上手になった所を有《あり》の儘《まま》に告白したかったのだが、如何《いかん》せん、筆を執《と》ってる時は、元日にまだ間《ま》があったし、且《かつ》虚子が年始に見えるとも見えないとも極《き》まっていなかった上に、謡をうたう事も全然未定だったので、営業上已《やむ》を得ず一年前の極《きわ》めて告白し難い所を告白したのである。此の順で行くと此年は又去年の元日を読者に御覧に入れなければならん訳であるが、そうそう過去のまずい所ばかり吹聴《ふいちょう》するのは、如何《いか》にも現在の己に対して侮辱を加えるようで済まない気がするから故意《わざ》と略した。それで猶《なお》のこと塞《つか》えた。
元日新聞へ載《の》せるものには、どうも斯《こ》う云う困難が附帯して弱る。現に今原稿紙に向っているのは、実を云うと十二月二十三日である。家《うち》では餅《もち》もまだ搗《つ》かない。町内で松飾りを立てたものは一軒もない。机の前に坐《すわ》りながら何を書こうかと考えると、書く事の困難以外に何だか自分一人|御先走《おさきばし》ってる様な気がする。それにも拘《かかわ》らず、書いてる事が何処《どこ》となく屠蘇《とそ》の香《か》を帯びているのは、正月を迎える想像力が豊富なためではない。何でも接《つ》ぎ合わせて物にしなければならない義務を心得た文学者だからである。もし世間が元日に対する僻見《へきけん》を撤回して、吉凶禍福《きっきょうかふく》共にこもごも起り得べき、平凡|且《かつ》乱雑なる一日と見做《みな》して呉《く》れる様になったら、余も亦《また》余所行《よそゆき》の色気を抜いて平常の心に立ち返る事が出来るから、たとい書く事に酔払いの調子が失せないにしても、もっと楽に片付けられるだろうと思う。尤《もっと》もそうなれば、初刷の頁も平常に復する訳だから、とくに元日に限って書かねばならぬ必要も消滅するかも知れない。それも物淋《ものさび》しい様だが、昨今の如き元日に対して調子を合せた文章を書こうとするのは、丁度《ちょうど》文部大臣が新しい材料のないのに拘《かかわ》らず、あらゆる卒業式に臨んで祝詞を読むと一般である。
底本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石
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