からんでもいいや、それよりこの襖《ふすま》が面白いよ。一面に金紙《きんがみ》を張り付けたところは豪勢だが、ところどころに皺《しわ》が寄ってるには驚ろいたね。まるで緞帳芝居《どんちょうしばい》の道具立《どうぐだて》見たようだ。そこへ持って来て、筍《たけのこ》を三本、景気に描《か》いたのは、どう云う了見《りょうけん》だろう。なあ甲野さん、これは謎《なぞ》だぜ」
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものが描《か》いてあるんだから謎だろう」
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。気狂《きちがい》の発明した詰将棋《つめしょうぎ》の手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」
「じゃこの筍も気違の画工《えかき》が描いたんだろう」
「ハハハハ。そのくらい事理《じり》が分ったら煩悶《はんもん》もなかろう」
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、昔話《むかしばな》しにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。知ってるかい」
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない執念深《しゅうねんぶか》い人間だから、……」
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を奉納《ほうのう》したところが……」
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車の轅《ながえ》と横木を蔓《かずら》で結《ゆわ》いた結び目を誰がどうしても解《と》く事が出来ない」
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その結目《ノット》をアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方の帝《てい》たらんと云う神託《しんたく》を聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだと云って……」
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う了見《りょうけん》がなくっちゃ駄目だと思うんだね」
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど卑怯《ひきょう》なものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなに豪《えら》いと思ってるのか」
 会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は箕坐《あぐら》のまま旅行案内をひろげる。雨は斜《なな》めに降る。
 古い京をいやが上に寂《さ》びよと降る糠雨《ぬかあめ》が、赤い腹を空に見せて衝《つ》いと行く乙鳥《つばくら》の背《せ》に応《こた》えるほど繁くなったとき、下京《しもきょう》も上京《かみきょう》もしめやかに濡《ぬ》れて、三十六峰《さんじゅうろっぽう》の翠《みど》りの底に、音は友禅《ゆうぜん》の紅《べに》を溶いて、菜の花に注《そそ》ぐ流のみである。「御前《おまえ》川上、わしゃ川下で……」と芹《せり》を洗う門口《かどぐち》に、眉《まゆ》をかくす手拭《てぬぐい》の重きを脱げば、「大文字《だいもんじ》」が見える。「松虫《まつむし》」も「鈴虫《すずむし》」も幾代《いくよ》の春を苔蒸《こけむ》して、鶯《うぐいす》の鳴くべき藪《やぶ》に、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門《らしょうもん》に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り毀《こぼ》たれた。綱《つな》が※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎとった腕の行末《ゆくえ》は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨《はるさめ》が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園《ぎおん》では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
 甲野さんは寝ながら日記を記《つ》けだした。横綴《よことじ》の茶の表布《クロース》の少しは汗に汚《よ》ごれた角《かど》を、折るようにあけて、二三枚めくると、一|頁《ページ》の三《さん》が一《いち》ほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆を執《と》って景気よく、
「一奩《いちれん》楼角雨《ろうかくのあめ》、閑殺《かんさつす》古今人《ここんのひと》」
と書いてしばらく考えている。転結《てんけつ》を添えて絶句にする気と見える。
 旅行案内を放《ほう》り出して宗近君はずしんと畳を威嚇《おどか》して椽側《えんがわ》へ出る。椽側には御誂向《おあつらえむき》に一脚の籐《と》の椅子《いす》が、人待ち顔に、しめっぽく据《す》えてある。連※[#「くさかんむり/翹」、第4水準2−87−19]《れんぎょう》の疎《まばら》なる花の間から隣《とな》り家《や》の座敷が見える。障子《しょうじ》は立て切ってある。中《うち》では琴の音《ね》がする。
「忽《たちまち》※[#「耳+吾」、56−1]《きく》弾琴響《だんきんのひびき》、垂楊《すいよう》惹恨《うらみをひいて》新《あらたなり》」
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙は謎《なぞ》である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、白頭《はくとう》に※[#「にんべん+亶」、第3水準1−14−43]※[#「にんべん+回」、第3水準1−14−18]《せんかい》し、中夜《ちゅうや》に煩悶《はんもん》するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
 宗近君は籐《と》の椅子《いす》に横平《おうへい》な腰を据えてさっきから隣りの琴《こと》を聴いている。御室《おむろ》の御所《ごしょ》の春寒《はるさむ》に、銘《めい》をたまわる琵琶《びわ》の風流は知るはずがない。十三絃《じゅうさんげん》を南部の菖蒲形《しょうぶがた》に張って、象牙《ぞうげ》に置いた蒔絵《まきえ》の舌《した》を気高《けだか》しと思う数奇《すき》も有《も》たぬ。宗近君はただ漫然と聴《き》いているばかりである。
 滴々《てきてき》と垣を蔽《おお》う連※[#「くさかんむり/翹」、第4水準2−87−19]《れんぎょう》の黄《き》な向うは業平竹《なりひらだけ》の一叢《ひとむら》に、苔《こけ》の多い御影の突《つ》く這《ば》いを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に叡山苔《えいざんごけ》を這《は》わしている。琴の音《ね》はこの庭から出る。
 雨は一つである。冬は合羽《かっぱ》が凍《こお》る。秋は灯心が細る。夏は褌《ふどし》を洗う。春は――平打《ひらうち》の銀簪《ぎんかん》を畳の上に落したまま、貝合《かいあわ》せの貝の裏が朱と金と藍《あい》に光る傍《かたわら》に、ころりんと掻《か》き鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に聴《き》くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥に捕《とら》えたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空《ほんらいくう》の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」
 琴の手は次第に繁くなる。雨滴《あまだれ》の絶間《たえま》を縫《ぬ》うて、白い爪が幾度か駒《こま》の上を飛ぶと見えて、濃《こまや》かなる調べは、太き糸の音《ね》と細き音を綯《よ》り合せて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「無絃《むげん》の琴を聴《き》いて始めて序破急《じょはきゅう》の意義を悟る」と書き終った時、椅子《いす》に靠《もた》れて隣家《となり》ばかりを瞰下《みおろ》していた宗近君は
「おい、甲野さん、理窟《りくつ》ばかり云わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなか旨《うま》いぜ」
と椽側《えんがわ》から部屋の中へ声を掛けた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと椽《えん》まで出張を命ずるから出て来なさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる景色《けしき》がない。
「おい、どうも東山が奇麗《きれい》に見えるぜ」
「そうか」
「おや、鴨川《かもがわ》を渉《わた》る奴《やつ》がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、布団《ふとん》着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の水嵩《みずかさ》が増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちても差《さ》し支《つか》えなしだ」
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の金襖《きんぶすま》の筍《たけのこ》を横に眺《なが》め始めた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう我《が》を折って部屋の中へ這入《はい》って来る。
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
「幾何《いくつ》だと思う」
「幾歳《いくつ》だかね」
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと判然《はっきり》云うがいい」
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、島田《しまだ》だよ」
「座敷でも開《あ》いてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り好加減《いいかげん》な雅号なんだろう」
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そら聴《き》きたくなった」
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこの筍《たけのこ》を研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、背《せい》が低く見えるがどう云うものだろう」
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の唐紙《からかみ》に三本|描《か》いたのは、どう云う因縁《いんねん》
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