白くかいてある。空は針線《はりがね》だらけである。一羽の鳶《とび》も見えぬ。上の静なるだけに下はすこぶる雑駁《ざっぱく》な世界である。
「おいおい」と大きな声で後から呼ぶ。
二十四五の夫人がちょっと振り向いたまま行く。
「おい」
今度は印絆天《しるしばんてん》が向いた。
呼ばれた本人は、知らぬ気《げ》に、来る人を避《よ》けて早足に行く。抜き競《くら》をして飛んで来た二|輛《りょう》の人力《じんりき》に遮《さえ》ぎられて、間はますます遠くなる。宗近《むねちか》君は胸を出して馳《か》け出した。寛《ゆる》く着た袷《あわせ》と羽織が、足を下《おろ》すたんびに躍《おどり》を踊る。
「おい」と後《うしろ》から手を懸《か》ける。肩がぴたりと留まると共に、小野さんの細面《ほそおもて》が斜《なな》めに見えた。両手は塞《ふさ》がっている。
「おい」と手を懸けたまま肩をゆす振る。小野さんはゆす振られながら向き直った。
「誰かと思ったら……失敬」
小野さんは帽子のまま鄭寧《ていねい》に会釈《えしゃく》した。両手は塞《ふさ》がっている。
「何を考えてるんだ。いくら呼んでも聴《きこ》えない」
「そうでしたか。ちっとも気がつかなかった」
「急いでるようで、しかも地面の上を歩いていないようで、少し妙だよ」
「何が」
「君の歩行方《あるきかた》がさ」
「二十世紀だから、ハハハハ」
「それが新式の歩行方か。何だか片足が新で片足が旧のようだ」
「実際こう云うものを提《さ》げていると歩行にくいから……」
小野さんは両手を前の方へ出して、この通りと云わぬばかりに、自分から下の方へ眼を着けて見せる。宗近君も自然と腰から下へ視線を移す。
「何だい、それは」
「こっちが紙屑籠《かみくずかご》、こっちが洋灯《ランプ》の台」
「そんなハイカラな形姿《なり》をして、大きな紙屑籠なんぞを提げてるから妙なんだよ」
「妙でも仕方がない、頼まれものだから」
「頼まれて妙になるのは感心だ。君に紙屑籠を提《さ》げて往来を歩くだけの義侠心があるとは思わなかった」
小野さんは黙って笑ながら御辞儀《おじぎ》をした。
「時にどこへ行くんだね」
「これを持って……」
「それを持って帰るのかね」
「いいえ。頼まれたから買って行ってやるんです。君は?」
「僕はどっちへでも行く」
小野さんは内心少々当惑した。急いでいるようで、しかも地面の上を歩行《あるい》ていないようだと、宗近君が云ったのは、まさに現下の状態によく適合《あてはま》った小野評である。靴に踏む大地は広くもある、堅くもある、しかし何となく踏み心地が確かでない。にもかかわらず急ぎたい。気楽な宗近君などに逢《あ》っては立話をするのさえ難義である。いっしょにあるこうと云われるとなおさら困る。
常でさえ宗近君に捕《つら》まると何となく不安である。宗近君と藤尾《ふじお》の関係を知るような知らぬような間《ま》に、自分と藤尾との関係は成り立ってしまった。表向《おもてむき》人の許嫁《いいなずけ》を盗んだほどの罪は犯さぬつもりであるが、宗近君の心は聞かんでも知れている。露骨な人の立居振舞の折々にも、気のあるところはそれと推測が出来る。それを裏から壊しに掛ったとまでは行かぬにしても、事実は宗近君の望を、われ故《ゆえ》に、永久に鎖した訳になる。人情としては気の毒である。
気の毒はこれだけで気の毒である上に、宗近君が気楽に構えて、毫《ごう》も自分と藤尾の仲を苦にしていないのがなおさらの気の毒になる。逢えば隔意なく話をする。冗談《じょうだん》を云う。笑う。男子の本領を説く。東洋の経綸を論ずる。もっとも恋の事は余り語らぬ。語らぬと云わんよりむしろ語れぬのかも知れぬ。宗近君は恐らく恋の真相を解《げ》せぬ男だろう。藤尾の夫《おっと》には不足である。それにもかかわらず気の毒は依然として気の毒である。
気の毒とは自我を没した言葉である。自我を没した言葉であるからありがたい。小野さんは心のうちで宗近君に気の毒だと思っている。しかしこの気の毒のうちに大いなる己《おのれ》を含んでいる。悪戯《いたずら》をして親の前へ出るときの心持を考えて見るとわかる。気の毒だったと親のために悔ゆる了見《りょうけん》よりは何となく物騒だと云う感じが重《おも》である。わが悪戯が、己れと掛け離れた別人の頭の上に落した迷惑はともかくも、この迷惑が反響して自分の頭ががんと鳴るのが気味が悪い。雷《らい》の嫌《きらい》なものが、雷を封じた雲の峰の前へ出ると、少しく逡巡《しゅんじゅん》するのと一般である。ただの気の毒とはよほど趣《おもむき》が違う。けれども小野さんはこれを称して気の毒と云っている。小野さんは自分の感じを気の毒以下に分解するのを好まぬからであろう。
「散歩ですか」と小野さんは鄭寧《ていねい》に聞いた。
「うん。今、その角《かど》で電車を下りたばかりだ。だから、どっちへ行ってもいい」
この答は少々論理に叶《かな》わないと、小野さんは思った。しかし論理はどうでも構わない。
「僕は少し急ぐから……」
「僕も急いで差支《さしつかえ》ない。少し君の歩く方角へ急いでいっしょに行こう。――その紙屑籠《かみくずかご》を出せ。持ってやるから」
「なにいいです。見っともない」
「まあ、出しなさい。なるほど嵩張《かさば》る割に軽いもんだね。見っともないと云うのは小野さんの事だ」と宗近君は屑籠を揺《ふ》りながら歩き出す。
「そう云う風に提《さ》げるとさも軽そうだ」
「物は提げ様一つさ。ハハハハ。こりゃ勧工場《かんこうば》で買ったのかい。だいぶ精巧なものだね。紙屑を入れるのはもったいない」
「だから、まあ往来を持って歩けるんだ。本当の紙屑が這入《はい》っていちゃ……」
「なに持って歩けるよ。電車は人屑をいっぱい詰めて威張って往来を歩いてるじゃないか」
「ハハハハすると君は屑籠の運転手と云う事になる」
「君が屑籠の社長で、頼んだ男は株主か。滅多《めった》な屑は入れられない」
「歌反古《うたほご》とか、五車《ごしゃ》反古と云うようなものを入れちゃ、どうです」
「そんなものは要《い》らない。紙幣《しへい》の反古をたくさん入れて貰いたい」
「ただの反古を入れて置いて、催眠術を掛けて貰う方が早そうだ」
「まず人間の方で先に反古《ほご》になる訳だな。乞う隗《かい》より始めよか。人間の反古なら催眠術を掛けなくてもたくさんいる。なぜこう隗より始めたがるのかな」
「なかなか隗より始めたがらないですよ。人間の反故が自分で屑籠の中へ這入ってくれると都合がいいんだけれども」
「自働屑籠を発明したら好かろう。そうしたら人間の反故がみんな自分で飛び込むだろう」
「一つ専売でも取るか」
「アハハハハ好かろう。知ったもののうちで飛び込ましたい人間でもあるかね」
「あるかも知れません」と小野さんは切り抜けた。
「時に君は昨夕《ゆうべ》妙な伴《つれ》とイルミネーションを見に行ったね」
見物に行った事はさっき露見してしまった。今更《いまさら》隠す必要はない。
「ええ、君らも行ったそうですね」と小野さんは何気なく答えた。甲野《こうの》さんは見つけても知らぬ顔をしている。藤尾は知らぬ顔をして、しかも是非共こちらから白状させようとする。宗近君は向《むこう》から正面に質問してくる。小野さんは何気なく答えながら、心のうちになるほどと思った。
「あれは君の何だい」
「少し猛烈ですね。――故《もと》の先生です」
「あの女は、それじゃ恩師の令嬢だね」
「まあ、そんなものです」
「ああやって、いっしょに茶を飲んでいるところを見ると、他人とは見えない」
「兄妹と見えますか」
「夫婦さ。好い夫婦だ」
「恐れ入ります」と小野さんはちょっと笑ったがすぐ眼を外《そら》した。向側《むこうがわ》の硝子戸《ガラスど》のなかに金文字入の洋書が燦爛《さんらん》と詩人の注意を促《うな》がしている。
「君、あすこにだいぶ新刊の書物が来ているようだが、見ようじゃありませんか」
「書物か。何か買うのかい」
「面白いものがあれば買ってもいいが」
「屑籠を買って、書物を買うのはすこぶるアイロニーだ」
「なぜ」
宗近君は返事をする前に、屑籠を提げたまま、電車の間を向側へ馳《か》け抜けた。小野さんも小走《こばしり》に跟《つ》いて来る。
「はあだいぶ奇麗な本が陳列している。どうだい欲しいものがあるかい」
「さよう」と小野さんは腰を屈めながら金縁の眼鏡《めがね》を硝子窓に擦《す》り寄せて余念なく見取れている。
小羊《ラム》の皮を柔らかに鞣《なめ》して、木賊色《とくさいろ》の濃き真中に、水蓮《すいれん》を細く金に描《えが》いて、弁《はなびら》の尽くる萼《うてな》のあたりから、直なる線を底まで通して、ぐるりと表紙の周囲を回《まわ》らしたのがある。背を平らに截《た》って、深き紅《くれない》に金髪を一面に這《は》わせたような模様がある。堅き真鍮版《しんちゅうばん》に、どっかと布《クロース》の目を潰《つぶ》して、重たき箔《はく》を楯形《たてがた》に置いたのがある。素気《すげ》なきカーフの背を鈍色《にびいろ》に緑に上下《うえした》に区切って、双方に文字だけを鏤《ちりば》めたのがある。ざら目の紙に、品《ひん》よく朱の書名を配置した扉《とびら》も見える。
「みんな欲しそうだね」と宗近君は書物を見ずに、小野さんの眼鏡ばかり見ている。
「みんな新式な装釘《バインジング》だ。どうも」
「表紙だけ奇麗にして、内容の保険をつけた気なのかな」
「あなた方のほうと違って文学書だから」
「文学書だから上部《うわべ》を奇麗にする必要があるのかね。それじゃ文学者だから金縁の眼鏡を掛ける必要が起るんだね」
「どうも、きびしい。しかしある意味で云えば、文学者も多少美術品でしょう」と小野さんはようやく窓を離れた。
「美術品で結構だが、金縁眼鏡だけで保険をつけてるのは情《なさけ》ない」
「とかく眼鏡が祟《たた》るようだ。――宗近君は近視眼じゃないんですか」
「勉強しないから、なりたくてもなれない」
「遠視眼でもないんですか」
「冗談《じょうだん》を云っちゃいけない。――さあ好加減《いいかげん》に歩こう」
二人は肩を比《なら》べてまた歩き出した。
「君、鵜《う》と云う鳥を知ってるだろう」と宗近君が歩きながら云う。
「ええ。鵜がどうかしたんですか」
「あの鳥は魚をせっかく呑んだと思うと吐いてしまう。つまらない」
「つまらない。しかし魚は漁夫《りょうし》の魚籃《びく》の中に這入《はい》るから、いいじゃないですか」
「だからアイロニーさ。せっかく本を読むかと思うとすぐ屑籠《くずかご》のなかへ入れてしまう。学者と云うものは本を吐いて暮している。なんにも自分の滋養にゃならない。得《とく》の行くのは屑籠ばかりだ」
「そう云われると学者も気の毒だ。何をしたら好いか分らなくなる」
「行為《アクション》さ。本を読むばかりで何にも出来ないのは、皿に盛った牡丹餅《ぼたもち》を画《え》にかいた牡丹餅と間違えておとなしく眺《なが》めているのと同様だ。ことに文学者なんてものは奇麗な事を吐く割に、奇麗な事をしないものだ。どうだい小野さん、西洋の詩人なんかによくそんなのがあるようじゃないか」
「さよう」と小野さんは間《ま》を延ばして答えたが、
「例《たと》えば」と聞き返した。
「名前なんか忘れたが、何でも女をごまかしたり、女房をうっちゃったりしたのがいるぜ」
「そんなのはいないでしょう」
「なにいる、たしかにいる」
「そうかな。僕もよく覚えていないが……」
「専門家が覚えていなくっちゃ困る。――そりゃそうと昨夜《ゆうべ》の女ね」
小野さんの腋《わき》の下が何だかじめじめする。
「あれは僕よく知ってるぜ」
琴《こと》の事件なら糸子から聞いた。その外《ほか》に何も知るはずがない。
「蔦屋《つたや》の裏にいたでしょう」と一躍して先へ出てしまった。
「琴を弾いていた」
「なかなか旨《うま》いでしょう」と小野さんは容易に悄然《しょげ》ない。藤尾に逢った時とは少々
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