ぜず、藤尾は眼を上げなかった。ただ畳に落す靴足袋の先をちらりと見ただけでははあと悟った。小野さんは座に着かぬ先から、もう舐《な》められている。
「今日《こんにち》は……」と座りながら笑いかける。
「いらっしゃい」と真面目な顔をして、始めて相手をまともに見る。見られた小野さんの眸《ひとみ》はぐらついた。
「御無沙汰《ごぶさた》をしました」とすぐ言訳を添える。
「いいえ」と女は遮《さえぎ》った。ただしそれぎりである。
男は出鼻を挫《くじ》かれた気持で、どこから出直そうかと考える。座敷は例のごとく静である。
「だいぶ暖《あった》かになりました」
「ええ」
座敷のなかにこの二句を点じただけで、後《あと》は故《もと》のごとく静になる。ところへ鯉《こい》がぽちゃりとまた跳《はね》る。池は東側で、小野さんの背中に当る。小野さんはちょっと振り向いて鯉が[#「鯉が」に傍点]と云おうとして、女の方を見ると、相手の眼は南側の辛夷《こぶし》に注《つ》いている。――壺《つぼ》のごとく長い弁《はなびら》から、濃い紫《むらさき》が春を追うて抜け出した後は、残骸《なきがら》に空《むな》しき茶の汚染《しみ》を皺立《しわだ》てて、あるものはぽきりと絶えた萼《うてな》のみあらわである。
鯉が[#「鯉が」に傍点]と云おうとした小野さんはまた廃《や》めた。女の顔は前よりも寄りつけない。――女は御無沙汰をした男から、御無沙汰をした訳を云わせる気で、ただいいえ[#「いいえ」に傍点]と受けた。男は仕損《しま》ったと心得て、だいぶ暖《あったか》になりましたと気を換えて見たが、それでも験《げん》が見えぬので、鯉が[#「鯉が」に傍点]の方へ移ろうとしたのである。男は踏み留《とど》まれるところまで滑《すべ》って行く気で、気を揉《も》んでいるのに、女は依然として故の所に坐って動かない。知らぬ小野さんはまた考えなければならぬ。
四五日来なかったのが気に入らないなら、どうでもなる。昨夕《ゆうべ》博覧会で見つかったなら少し面倒である。それにしても弁解の道はいくらでもつく。しかし藤尾がはたして自分と小夜子を、ぞろぞろ動く黒い影の絶間なく入れ代るうちで認めたろうか。認められたらそれまでである。認められないのに、こちらから思い切って持ち出すのは、肌を脱いで汚《むさ》い腫物《しゅもつ》を知らぬ人の鼻の前《さき》に臭《にお》わせると同じ事になる。
若い女と連れ立って路を行くは当世である。ただ歩くだけなら名誉になろうとも瑕疵《きず》とは云わせぬ。今宵限《こよいかぎり》の朧《おぼろ》だものと、即興にそそのかされて、他生《たしょう》の縁の袖《そで》と袂《たもと》を、今宵限り擦《す》り合せて、あとは知らぬ世の、黒い波のざわつく中に、西東首を埋《うず》めて、あかの他人と化けてしまう。それならば差支《さしつかえ》ない。進んでこうと話もする。残念な事には、小夜子と自分は、碁盤の上に、訳もなく併《なら》べられた二つの石の引っ付くような浅い関係ではない。こちらから逃げ延びた五年の永き年月《としつき》を、向《むこう》では離れじと、日《ひ》の間《ま》とも夜の間ともなく、繰り出す糸の、誠は赤き縁《えにし》の色に、細くともこれまで繋《つな》ぎ留《と》められた仲である。
ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬ嘘《うそ》となる。嘘は河豚汁《ふぐじる》である。その場限りで祟《たたり》がなければこれほど旨《うま》いものはない。しかし中毒《あたっ》たが最後苦しい血も吐かねばならぬ。その上嘘は実《まこと》を手繰寄《たぐりよ》せる。黙っていれば悟られずに、行き抜ける便《たより》もあるに、隠そうとする身繕《みづくろい》、名繕、さては素性《すじょう》繕に、疑《うたがい》の眸《ひとみ》の征矢《そや》はてっきり的《まと》と集りやすい。繕は綻《ほころ》びるを持前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見た事かと、現われた時こそ、身の※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さび》は生涯《しょうがい》洗われない。――小野さんはこれほどの分別を持った、利害の関係には暗からぬ利巧者《りこうもの》である。西東隔たる京を縫うて、五年の長き思の糸に括《くく》られているわが情実は、目の前にすねて坐った当人には話したくない。少なくとも新らしい血に通《かよ》うこの頃の恋の脈が、調子を合せて、天下晴れての夫婦ぞと、二人の手頸《てくび》に暖たかく打つまでは話したくない。この情実を話すまいとすると、ただの女と不知《しら》を切る当座の嘘は吐《つ》きたくない。嘘を吐くまいとすると、小夜子の事は名前さえも打ち明けたくない。――小野さんはしきりに藤尾の様子を眺めている。
「昨夕《ゆうべ》博覧会へ御出《おいで》に……」とまで思い切った小野さんは、御出になりましたか[#「御出になりましたか」に傍点]にしようか、御出になったそうですね[#「御出になったそうですね」に傍点]にしようかのところでちょっとごとついた。
「ええ、行きました」
迷っている男の鼻面《はなづら》を掠《かす》めて、黒い影が颯《さっ》と横切って過ぎた。男はあっと思う間《ま》に先《せん》を越されてしまう。仕方がないから、
「奇麗《きれい》でしたろう」とつける。奇麗でしたろうは詩人として余り平凡である。口に出した当人も、これはひどいと自覚した。
「奇麗でした」と女は明確《きっぱり》受け留める。後《あと》から
「人間もだいぶ奇麗でした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し見当《けんとう》がつき兼ねるので
「そうでしたか」と云った。当《あた》り障《さわ》りのない答は大抵の場合において愚《ぐ》な答である。弱身のある時は、いかなる詩人も愚をもって自ら甘んずる。
「奇麗な人間もだいぶ見ましたよ[#「見ましたよ」に傍点]」と藤尾は鋭どく繰り返した。何となく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口を緘《つぐ》んだ。女も留ったまま動かない。まだ白状しない気かと云う眼つきをして小野さんを見ている。宗盛《むねもり》と云う人は刀を突きつけられてさえ腹を切らなかったと云う。利害を重んずる文明の民が、そう軽卒に自分の損になる事を陳述する訳がない。小野さんはもう少し敵の動静を審《つまびらか》にする必要がある。
「誰か御伴《おつれ》がありましたか」と何気なく聴いて見る。
今度は女の返事がない。どこまでも一つ関所を守っている。
「今、門の所で甲野さんに逢ったら、甲野さんもいっしょに行ったそうですね」
「それほど知っていらっしゃる癖に、何で御尋ねになるの」と女はつんと拗《す》ねた。
「いえ、別に御伴でもあったのかと思って」と小野さんは、うまく逃げる。
「兄の外《ほか》にですか」
「ええ」
「兄に聞いて御覧になればいいのに」
機嫌は依然として悪いが、うまくすると、どうか、こうか渦《うず》の中を漕《こ》ぎ抜けられそうだ。向うの言葉にぶら下がって、往ったり来たりするうちに、いつの間《ま》にやら平地《ひらち》へ出る事がある。小野さんは今まで毎度この手で成功している。
「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、早く上がろうとして急いだもんですから」
「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。その隙《すき》に
「そんなに忙《いそが》しいものが、何で四五日無届欠席をしたんです」と飛んで来た。
「いえ、四五日大変忙しくって、どうしても来られなかったんです」
「昼間も」と女は肩を後《うしろ》へ引く。長い髪が一筋ごとに活《い》きているように動く。
「ええ?」と変な顔をする。
「昼間もそんなに忙しいんですか」
「昼間って……」
「ホホホホまだ分らないんですか」と今度はまた庭まで響くほどに疳高《かんだか》く笑う。女は自由自在に笑う事が出来る。男は茫然《ぼうぜん》としている。
「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」と云って、両手をおとなしく膝の上に重ねた。燦《さん》たる金剛石《ダイヤモンド》がぎらりと痛く、小野さんの眼に飛び込んで来る。小野さんは竹箆《しっぺい》でぴしゃりと頬辺《ほおぺた》を叩《たた》かれた。同時に頭の底で見られた[#「見られた」に傍点]と云う音がする。
「あんまり、勉強なさるとかえって金時計が取れませんよ」と女は澄した顔で畳み掛ける。男の陣立は総崩《そうくずれ》となる。
「実は一週間前に京都から故《もと》の先生が出て来たものですから……」
「おや、そう、ちっとも知らなかったわ。それじゃ御忙い訳ね。そうですか。そうとも知らずに、飛んだ失礼を申しまして」と嘯《うそぶ》きながら頭を低《た》れた。緑の髪がまた動く。
「京都におった時、大変世話になったものですから……」
「だから、いいじゃありませんか、大事にして上げたら。――私はね。昨夕《ゆうべ》兄と一《はじめ》さんと糸子さんといっしょに、イルミネーションを見に行ったんですよ」
「ああ、そうですか」
「ええ、そうして、あの池の辺《ふち》に亀屋《かめや》の出店があるでしょう。――ねえ知っていらっしゃるでしょう、小野さん」
「ええ――知って――います」
「知っていらっしゃる。――いらっしゃるでしょう。あすこで皆《みんな》して御茶を飲んだんです」
男は席を立ちたくなった。女はわざと落ちついた風を、飽《あ》くまでも粧《よそお》う。
「大変|旨《おいし》い御茶でした事。あなた、まだ御這入《おはいり》になった事はないの」
小野さんは黙っている。
「まだ御這入にならないなら、今度《こんだ》是非その京都の先生を御案内なさい。私もまた一さんに連れて行って貰うつもりですから」
藤尾は一さん[#「一さん」に傍点]と云う名前を妙に響かした。
春の影は傾《かたぶ》く。永き日は、永くとも二人の専有ではない。床に飾ったマジョリカの置時計が絶えざる対話をこの一句にちん[#「ちん」に傍点]と切った。三十分ほどしてから小野さんは門外へ出る。その夜《よ》の夢に藤尾は、驚くうちは楽《たのしみ》がある! 女は仕合《しあわせ》なものだ! と云う嘲《あざけり》の鈴《れい》を聴かなかった。
十三
太い角柱を二本立てて門と云う。扉はあるかないか分らない。夜中郵便《やちゅうゆうびん》と書いて板塀《いたべい》に穴があいているところを見ると夜は締《しま》りをするらしい。正面に芝生《しばふ》を土饅頭《どまんじゅう》に盛り上げて市《いち》を遮《さえ》ぎる翠《みどり》を傘《からかさ》と張る松を格《かた》のごとく植える。松を廻れば、弧線を描《えが》いて、頭の上に合う玄関の廂《ひさし》に、浮彫の波が見える。障子は明け放ったままである。呑気《のんき》な白襖《しろぶすま》に舞楽の面ほどな草体を、大雅堂《たいがどう》流の筆勢で、無残《むざん》に書き散らして、座敷との仕切《しきり》とする。
甲野《こうの》さんは玄関を右に切れて、下駄箱の透《す》いて見える格子《こうし》をそろりと明けた。細い杖《つえ》の先で合土《たたき》の上をこちこち叩《たた》いて立っている。頼むとも何とも云わぬ。無論応ずるものはない。屋敷のなかは人の住む気合《けわい》も見えぬほどにしんとしている。門前を通る車の方がかえって賑《にぎ》やかに聞える。細い杖の先がこちこち鳴る。
やがて静かなうちで、すうと唐紙《からかみ》が明く音がする。清《きよ》や清やと下女を呼ぶ。下女はいないらしい。足音は勝手の方に近づいて来た。杖の先はこちこちと云う。足音は勝手から内玄関の方へ抜け出した。障子があく。糸子《いとこ》と甲野さんは顔を見合せて立った。
下女もおり書生も置く身は、気軽く構えても滅多《めった》に取次に出る事はない。出ようと思う間《ま》に、立てかけた膝《ひざ》をおろして、一針でも二針でも縫糸が先へ出るが常である。重たき琵琶《びわ》の抱《だ》き心地と云う永い昼が、永きに堪《た》えず崩れんとするを、鳴く※[#「亡/(虫+虫)」、第3水準1−91−58]《あぶ》にうっとりと夢を支
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