遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に懸想《けそう》して……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手で顎《あご》を支《ささ》えながら、右に持ったコフィー茶碗を鼻の先に据《す》えたままぼんやり向うを見ている。
「蜜柑《みかん》が食いたい」と宗近君が云う。甲野さんは黙っている。やがて
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」と毫《ごう》も心配にならない気色《けしき》で云う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と挨拶《あいさつ》も聞く料簡《りょうけん》はなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を真面目《まじめ》に聞き出した。
「糸公か。あいつは、から赤児《ねんね》だね。しかし兄思いだよ。狐の袖無《ちゃんちゃん》を縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手なんだぜ。どうだ肱突《ひじつき》でも造《こしら》えてもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面に拡《ひろ》げて、小夜子は小さい口に、玉子焼をすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、二たたび列車のなかに擦《す》れ違ったまま、互の運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる明日《あす》の世界を擁して新橋の停車場《ステーション》に着く。
「さっき馳《か》けて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出る時、宗近君が聞いて見る。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
四個の小世界は、停車場《ステーション》に突き当って、しばらく、ばらばらとなる。
八
一本の浅葱桜《あさぎざくら》が夕暮を庭に曇る。拭き込んだ椽《えん》は、立て切った障子の外に静かである。うちは小形の長火鉢《ながひばち》に手取形《てとりがた》の鉄瓶《てつびん》を沸《たぎ》らして前には絞《しぼ》り羽二重《はぶたえ》の座布団《ざぶとん》を敷く。布団の上には甲野《こうの》の母が品《ひん》よく座《すわ》っている。きりりと釣り上げた眼尻の尽くるあたりに、疳《かん》の筋《すじ》が裏を通って額へ突き抜けているらしい上部《うわべ》を、浅黒く膚理《きめ》の細かい皮が包んで、外見だけは至極《しごく》穏やかである。――針を海綿に蔵《かく》して、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に膏薬《こうやく》を貼《は》って創口《きずぐち》を快よく慰めよ。出来得べくんば唇《くちびる》を血の出る局所に接《つ》けて他意なきを示せ。――二十世紀に生れた人はこれだけの事を知らねばならぬ。骨を露《あら》わすものは亡《ほろ》ぶと甲野さんがかつて日記に書いた事がある。
静かな椽に足音がする。今|卸《おろ》したかと思われるほどの白足袋《しろたび》を張り切るばかりに細長い足に見せて、変り色の厚い※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1−91−72]《ふき》の椽に引き擦るを軽く蹴返《けかえ》しながら、障子《しょうじ》をすうと開ける。
居住《いずまい》をそのままの母は、濃い眉《まゆ》を半分ほど入口に傾けて、
「おや御這入《おはいり》」と云う。
藤尾《ふじお》は無言で後《あと》を締める。母の向《むこう》に火鉢を隔ててすらりと坐った時、鉄瓶《てつびん》はしきりに鳴る。
母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を俯目《ふしめ》に眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。
口多き時に真《まこと》少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春は逝《ゆ》きつつある。
藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
親、子の眼は、はたと行き合った。真は一瞥《いちべつ》に籠《こも》る。熱に堪《た》えざる時は骨を露《あら》わす。
「ふん」
長煙管《ながぎせる》に煙草《たばこ》の殻を丁《ちょう》とはたく音がする。
「どうする気なんでしょう」
「どうする気か、彼人《あのひと》の料簡《りょうけん》ばかりは御母《おっか》さんにも分らないね」
雲井の煙は会釈《えしゃく》なく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰って来ても同《おんな》じ事ですね」
「同じ事さ。生涯《しょうがい》あれなんだよ」
御母《おっか》さんの疳《かん》の筋は裏から表へ浮き上がって来た。
「家《うち》を襲《つ》ぐのがあんなに厭《いや》なんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだから悪《にく》いんだよ。あんな事を云って私達《わたしたち》に当付《あてつ》けるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日《きょう》までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。煮《に》え切らないっちゃありゃしない。彼人《あのひと》の顔を見るたんびに阿母《おっかさん》は疳癪《かんしゃく》が起ってね。……」
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、不知《しら》を切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を孕《はら》む。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが滅多《めった》にあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、御廃《およ》しなさい、阿母《おっか》さんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへ閉《と》じ籠《こも》って寝転んでるしさ。――そうして他人《ひと》には財産を藤尾にやって自分は流浪《るろう》するつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
「宗近《むねちか》の阿爺《おとっさん》の所へ行った時、そう云ったとさ」
「よっぽど男らしくない性質《たち》ですね。それより早く糸子《いとこ》さんでも貰《もら》ってしまったら好いでしょうに」
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの料簡《りょうけん》はとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」
母は鳴る鉄瓶《てつびん》を卸《おろ》して、炭取を取り上げた。隙間《すきま》なく渋《しぶ》の洩《も》れた劈痕焼《ひびやき》に、二筋三筋|藍《あい》を流す波を描《えが》いて、真白《ましろ》な桜を気ままに散らした、薩摩《さつま》の急須《きゅうす》の中には、緑りを細く綯《よ》り込んだ宇治《うじ》の葉が、午《ひる》の湯に腐《ふ》やけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾は疾《と》く抜け出した香《かおり》のなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れの底を敲《たた》くほどは、さほどとも思えぬが、縁《ふち》に近くようやく色を増して、濃き水は泡《あわ》を面《おもて》に片寄せて動かずなる。
母は掻《か》き馴《な》らしたる灰の盛り上りたるなかに、佐倉炭《さくらずみ》の白き残骸《なきがら》の完《まった》きを毀《こぼ》ちて、心《しん》に潜む赤きものを片寄せる。温《ぬく》もる穴の崩《くず》れたる中には、黒く輪切の正しきを択《えら》んで、ぴちぴちと活《い》ける。――室内の春光は飽《あ》くまでも二人《ふたり》の母子《ぼし》に穏かである。
この作者は趣なき会話を嫌う。猜疑《さいぎ》不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴《かんかそきん》の春を司《つかさ》どる人の歌めく天《あめ》が下《した》に住まずして、半滴《はんてき》の気韻《きいん》だに帯びざる野卑の言語を臚列《ろれつ》するとき、毫端《ごうたん》に泥を含んで双手に筆を運《めぐ》らしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の急須《きゅうす》と、佐倉の切り炭を描《えが》くは瞬時の閑《かん》を偸《ぬす》んで、一弾指頭《いちだんしとう》に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は昔《むか》しより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。嬉《うれ》しからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者の切《せつ》なき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
「宗近と云えば、一《はじめ》もよっぽど剽軽者《ひょうきんもの》だね。学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って、――あれで当人は立派にえらい気なんだよ」
厩《うまや》と鳥屋《とや》といっしょにあった。牝鶏《めんどり》の馬を評する語に、――あれは鶏鳴《とき》をつくる事も、鶏卵《たまご》を生む事も知らぬとあったそうだ。もっともである。
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。普通《なみ》のものなら、もう少し奮発する訳ですがねえ」
「鉄砲玉だよ」
意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾は滑《なめ》らかな頬《ほお》に波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の鉄砲玉は鉛を鎔《と》かして鋳《い》る。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母は飽《あ》くまでも真面目《まじめ》である。母には娘の笑った意味が分からない。
「御前はあの人をどう思ってるの」
娘の笑は、端《はし》なくも母の疑問を起す。子を知るは親に若《し》かずと云う。それは違っている。御互に喰い違っておらぬ世界の事は親といえども唐《から》、天竺《てんじく》である。
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
母は鋭どき眉《まゆ》の下から、娘を屹《きっ》と見た。意味は藤尾にちゃんと分っている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払って母の切って出るのを待つ。掛引は親子の間にもある。
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための下拵《したごしらえ》と見える。
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。筍《たけのこ》を輪切りにすると、こんな風になる。張《はり》のある眉《まゆ》に風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元になお籠《こも》る何物かがちょっと閃《はため》いてすぐ消えた。母は相槌《あいづち》を打つ。
「あんな見込のない人は、私《わたし》も好かない」
趣味のないのと見込のないのとは別物である。鍛冶《かじ》の頭《かみ》はかん[#「かん」に傍点]と打ち、相槌はとん[#「とん」に傍点]と打つ。されども打たるるは同じ剣《つるぎ》である。
「いっそ、ここで、判然《はっきり》断わろう」
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども阿爺《おとっさん》が、あの金時計を一《はじめ》にやると御言いのだよ」
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を玩具《おもちゃ》にして、赤い珠《たま》ばかり
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