。
「ええ、どうぞ捜がしてちょうだい、私の姉さんのつもりで」
糸子は際《きわ》どいところを少し出過ぎた。二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出過ぎるとはたかれる。
「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向うで入れる捜索《さぐり》の綱を、ぷつりと切って、逆《さか》さまに投げ帰した。糸子はまだ悟らぬ。
「なぜ?」と首を傾ける。
放つ矢のあたらぬはこちらの不手際《ふてぎわ》である。あたったのに手答《てごたえ》もなく装《よそお》わるるは不器量《ふきりょう》である。女は不手際よりは不器量を無念に思う。藤尾はちょっと下唇を噛《か》んだ。ここまで推《お》して来て停《とど》まるは、ただ勝つ事を知る藤尾には出来ない。
「あなたは私《わたし》の姉さんになりたくはなくって」と、素知らぬ顔で云う。
「あらっ」と糸子の頬に吾《われ》を忘れた色が出る。敵はそれ見ろと心の中《うち》で冷笑《あざわら》って引き上げる。
甲野《こうの》さんと宗近《むねちか》君と相談の上取りきめた格言に云う。――第一義において活動せざるものは肝胆相照らすを得ずと。両人《ふたり》の妹は肝胆の外廓《そとぐるわ》で戦争をしている。肝胆の中に引き入れる戦争か、肝胆の外に追っ払う戦争か。哲学者は二十世紀の会話を評して肝胆相曇らす戦争と云った。
ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追い懸《か》けられて、下宿の部屋のなかをぐるぐると廻った。何度廻っても逃げ延びられそうもない時、過去の友達に逢って、過去と現在との調停を試みた。調停は出来たような、出来ないような訳で、自己は依然として不安の状態にある。度胸を据えて、追っ懸けてくるものを取《と》っ押《つかま》える勇気は無論ない。小野さんはやむを得ず、未来を望んで馳《か》け込んで来た。袞竜《こんりょう》の袖に隠れると云う諺《ことわざ》がある。小野さんは未来の袖に隠れようとする。
小野さんは蹌々踉々《そうそうろうろう》として来た。ただ蹌々踉々の意味を説明しがたいのが残念である。
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配の上に被《き》せる従容《しょうよう》の紋付を、まだ誂《あつら》えていない。二十世紀の人は皆この紋付《もんつき》を二三着ずつ用意すべしと先の哲学者が述べた事がある。
「大変御顔の色が悪い事ね」と糸子が云った。便《たよ》る未来が戈《ほこ》を逆《さかし》まにして、過去をほじり出そうとするのは情《なさ》けない。
「二三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が云う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近頃論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でも御乗んなさいと云われれば、乗らずにはいられない。大抵《たいてい》の嘘《うそ》は渡頭《ととう》の舟である。あるから乗る。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすっても御忙いのね」
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの欽吾《きんご》さんといっしょに京都へ遊びにいらっしゃらないはずね。――兄なんぞはそりゃ呑気《のんき》よ。少し寝られなくなればいいと思うわ」
「ホホホホそれでも家《うち》の兄より好いでしょう」
「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退《の》けたが、急に気がついて、羽二重《はぶたえ》の手巾《ハンケチ》を膝の上でくちゃくちゃに丸めた。
「ホホホホ」
唇の動く間から前歯の角《かど》を彩《いろ》どる金の筋がすっと外界に映《うつ》る。敵は首尾よくわが術中に陥《おちい》った。藤尾は第二の凱歌を揚げる。
「まだ京都から御音信《おたより》はないですか」と今度は小野さんが聞き出した。
「いいえ」
「だって端書《はがき》ぐらい来そうなものですね」
「でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、この間、母がそう云ったでしょう。二人共鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが? 御叔母《おば》さんが? 鉄砲玉でたくさんよ。だから早く御嫁を持たしてしまわないとどこへ飛んで行くか、心配でいけないんです」
「早く貰って御上げなさいよ。ねえ、小野さん。二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか」
藤尾は意味有り気に小野さんを見た。小野さんの眼と、藤尾の眼が行き当ってぶるぶると顫《ふる》える。
「ええ好いのを一人周旋しましょう」と小野さんは、手巾《ハンケチ》を出して、薄い口髭《くちひげ》をちょっと撫《な》でる。幽《かす》かな香《におい》がぷんとする。強いのは下品だと云う。
「京都にはだいぶ御知合があるでしょう。京都の方《かた》を一《はじめ》さんに御世話なさいよ。京都には美人が多いそうじゃありませんか」
小野さんの手巾はちょっと勢《いきおい》を失った。
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄は大変美人が多いと申しておりますよ」
「宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか」
「いいえ、今度が始めてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊の端書をよこして、そのはじに京都の女はみんな奇麗《きれい》だと書いてあるのよ」
「そう。そんなに奇麗なの」
「何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。ただ見たら好いかも知れないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。奇麗は奇麗ですけれども、表情がなくって、あまり面白くはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
「無精《ぶしょう》に似合わない事ね。何と」
「隣家《となり》の琴は御前より旨《うま》いって」
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より別嬪《べっぴん》だと書いてあるんです。にくらしいわね」
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんに逢《あ》っちゃ叶《かな》わない」
「でも、あなたの事は褒《ほ》めてありますよ」
「おや、何と」
「御前より別嬪《べっぴん》だ、しかし藤尾さんより悪いって」
「まあ、いやだ事」
藤尾は得意と軽侮の念を交《まじ》えたる眼を輝かして、すらりと首を後《うし》ろに引く。鬣《たてがみ》に比すべきものの波を起すばかりに見えたるなかに、玉虫貝の菫《すみれ》のみが星のごとく可憐《かれん》の光を放つ。
小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん三条《さんじょう》に蔦屋《つたや》と云う宿屋がござんすか」
底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、縋《すが》る未来に全く吸い込まれたる人は、刹那《せつな》の戸板返《といたがえ》しにずどんと過去へ落ちた。
追い懸けて来る過去を逃《の》がるるは雲紫《くもむらさき》に立ち騰《のぼ》る袖香炉《そでこうろ》の煙《けぶ》る影に、縹緲《ひょうびょう》の楽しみをこれぞと見極《みきわ》むるひまもなく、貪《むさ》ぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる一拶《いっさつ》に、結ばぬ夢は醒《さ》めて、逆《さか》しまに、われは過去に向って投げ返される。草間蛇《そうかんだ》あり、容易に青《せい》を踏む事を許さずとある。
「蔦屋《つたや》がどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが宿《とま》ってるんですって。だから、どんな所《とこ》かと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な旅屋《はたごや》じゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴が聴《きこ》えて――もっとも兄と一さんじゃ駄目ね。小野さんなら、きっと御気に入るでしょう。春雨がしとしと降ってる静かな日に、宿の隣家《おとなり》で美人が琴を弾《ひ》いてるのを、気楽に寝転《ねころ》んで聴いているのは、詩的でいいじゃありませんか」
小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、床《とこ》の山吹を無意味に眺《なが》めている。
「好いわね」と糸子が代理に答える。
詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子からいいわね[#「いいわね」に傍点]ぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴の音《ね》も、口に出さぬところであった。藤尾は不平である。
「想像すると面白い画《え》が出来ますよ。どんな所としたらいいでしょう」
家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意を解《げ》しかねる。要《い》らぬ事と黙って控《ひか》えているより仕方がない。小野さんは是非共口を開かねばならぬ。
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――廻《まわ》り椽《えん》で、加茂川がすこし見えて――三条から加茂川が見えても好いんでしょう」
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くに煙《けむ》るように見えるんです。その上に東山が――東山でしたね奇麗な丸《まある》い山は――あの山が、青い御供《おそなえ》のように、こんもりと霞《かす》んでるんです。そうして霞のなかに、薄く五重の塔が――あの塔の名は何と云いますか」
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首を傾《かた》げる。
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
女詩人《じょしじん》の空想はこの一句で破れた。家庭的の女は美くしい世をぶち壊しに生れて来たも同様である。藤尾は少しく眉を寄せる。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
五重の塔がどうもする訳《わけ》はない。刺身を眺めただけで台所へ下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺身を食わなければ我慢の出来ぬように教育された実用主義の人間である。
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
御機嫌に逆《さから》った時は、必ず人をもって詫《わび》を入れるのが世間である。女王の逆鱗《げきりん》は鍋《なべ》、釜《かま》、味噌漉《みそこし》の御供物《おくもつ》では直せない。役にも立たぬ五重の塔を霞《かすみ》のうちに腫物《はれもの》のように安置しなければならぬ。
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
藤尾の眉《まゆ》はぴくりと動いた。糸子は泣きたくなる。
「御気に障《さわ》ったの――私が悪るかったわ。本当に五重の塔は面白いのよ。御世辞じゃない事よ」
針鼠《はりねずみ》は撫《な》でれば撫でるほど針を立てる。小野さんは、破裂せぬ前にどうかしなければならぬ。
五重の塔を持ち出せばなお怒《おこ》られる。琴の音《ね》は自分に取って禁物である。小野さんはどうして調停したら好かろうかと考えた。話が京都を離れれば自分には好都合だが、むやみに縁のない離し方をすると、糸子さん同様に軽蔑《けいべつ》を招く。向うの話題に着いて廻って、しかも自分に苦痛のないように発展させなければならぬ。銀時計の手際ではちとむずかし過ぎるよう
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