りながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足《あとあし》で石を転《ころ》がしてはいかん。後《あと》から尾《つ》いて行くものが剣呑《けんのん》だ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて枯薄《かれすすき》の中へ仰向《あおむ》けに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を唱《とな》えるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜の杖《つえ》で、甲野さんの寝《ね》ている頭の先をこつこつ敲《たた》く。敲くたびに杖の先が薄を薙《な》ぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
「反吐《へど》が出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも一《ひ》と休息《やすみ》仕《つかまつ》ろう」
甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も傘《かさ》も坂道に転がしたまま、仰向《あおむ》けに空を眺《なが》めている。蒼白《あおじろ》く面高《おもだか》に削《けず》り成《な》せる彼の顔と、無辺際《むへんざい》に浮き出す薄き雲の※[#「條の木に代えて栩のつくり」、第3水準1−90−31]然《ゆうぜん》と消えて入る大いなる天上界《てんじょうかい》の間には、一塵の眼を遮《さえ》ぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
宗近君は米沢絣《よねざわがすり》の羽織を脱いで、袖畳《そでだた》みにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う間《ま》に諸肌《もろはだ》を脱いだ。下から袖無《ちゃんちゃん》が露《あら》われる。袖無の裏から、もじゃもじゃした狐《きつね》の皮が食《は》み出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。千羊《せんよう》の皮は一狐《いっこ》の腋《えき》にしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮は斑《まだら》にほうけて、むやみに脱落するところをもって見ると、何でもよほど性《たち》の悪い野良狐《のらぎつね》に違ない。
「御山《おやま》へ御登《おあが》りやすのどすか、案内しまほうか、ホホホ妙《けったい》な所《とこ》に寝ていやはる」とまた目暗縞《めくらじま》が下りて来る。
「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然として天《そら》を眺《なが》めている。
「そう泰然と尻を据《す》えちゃ困るな。まだ反吐《へど》を吐きそうかい」
「動けば吐く」
「厄介《やっかい》だなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界|万斛《ばんこく》の反吐皆|動《どう》の一字より来《きた》る」
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を担《かつ》いで麓《ふもと》まで下りなけりゃならんかと思って、内心少々|辟易《へきえき》していたんだ」
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は愛嬌《あいきょう》のない男だね」
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、一分《いっぷん》でも余計動かずにいようと云う算段だな。怪《け》しからん男だ」
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを斃《たお》す柔《やわら》かい武器だよ」
「それじゃ無愛想《ぶあいそ》は自分より弱いものを、扱《こ》き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに詭弁《きべん》を弄《ろう》するね。そんなら僕は御先へ御免蒙《ごめんこうむ》るぜ。いいか」
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、毛脛《けずね》に纏《まつ》わる竪縞《たてじま》の裾《すそ》をぐいと端折《はしお》って、同じく白縮緬《しろちりめん》の周囲《まわり》に畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引き懸《か》けるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる岨路《そばみち》を飄然《ひょうぜん》として左へ折れたぎり見えなくなった。
あとは静である。静かなる事|定《さだま》って、静かなるうちに、わが一脈《いちみゃく》の命を託《たく》すると知った時、この大乾坤《だいけんこん》のいずくにか通《かよ》う、わが血潮は、粛々《しゅくしゅく》と動くにもかかわらず、音なくして寂定裏《じゃくじょうり》に形骸《けいがい》を土木視《どぼくし》して、しかも依稀《いき》たる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶《うやむや》の累《わずらい》を捨てたるは、雲の岫《しゅう》を出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての拘泥《こうでい》を超絶したる活気である。古今来《ここんらい》を空《むな》しゅうして、東西位《とうざいい》を尽《つ》くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石《かせき》になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も紫《むらさき》も吸い尽くして、元の五彩に還《かえ》す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、詮《せん》ずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側《こちらがわ》なるすべてのいさくさは、肉|一重《ひとえ》の垣に隔《へだ》てられた因果《いんが》に、枯れ果てたる骸骨にいらぬ情《なさ》けの油を注《さ》して、要なき屍《しかばね》に長夜《ちょうや》の踊をおどらしむる滑稽《こっけい》である。遐《はるか》なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。
考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また歩行《ある》かねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の痕迹《こんせき》を、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いて髄《ずい》にいって消えぬほどある。いたずらに足の底に膨《ふく》れ上る豆の十や二十――と切り石の鋭どき上に半《なか》ば掛けたる編み上げの踵《かかと》を見下ろす途端《とたん》、石はきりりと面《めん》を更《か》えて、乗せかけた足をすわと云う間《ま》に二尺ほど滑《す》べらした。甲野さんは
「万里の道を見ず」
と小声に吟《ぎん》じながら、傘《かさ》を力に、岨路《そばみち》を登り詰めると、急に折れた胸突坂《むなつきざか》が、下から来る人を天に誘《いざな》う風情《ふぜい》で帽に逼《せま》って立っている。甲野さんは真廂《まびさし》を煽《あお》って坂の下から真一文字に坂の尽きる頂《いただ》きを見上げた。坂の尽きた頂きから、淡きうちに限りなき春の色を漲《みな》ぎらしたる果《はて》もなき空を見上げた。甲野さんはこの時
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
草山を登り詰めて、雑木《ぞうき》の間を四五段|上《のぼ》ると、急に肩から暗くなって、踏む靴の底が、湿《しめ》っぽく思われる。路は山の背《せ》を、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。近江《おうみ》の空を深く色どるこの森の、動かねば、その上《かみ》の幹と、その上の枝が、幾重《いくえ》幾里に連《つら》なりて、昔《むか》しながらの翠《みど》りを年ごとに黒く畳むと見える。二百の谷々を埋《うず》め、三百の神輿《みこし》を埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、三藐三菩提《さまくさぼだい》の仏達を埋め尽くして、森々《しんしん》と半空に聳《そび》ゆるは、伝教大師《でんぎょうだいし》以来の杉である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。
右よりし左よりして、行く人を両手に遮《さえ》ぎる杉の根は、土を穿《うが》ち石を裂いて深く地磐に食い入るのみか、余る力に、跳《は》ね返して暗き道を、二寸の高さに段々と横切っている。登らんとする岩《いわお》の梯子《ていし》に、自然の枕木を敷いて、踏み心地よき幾級の階《かい》を、山霊《さんれい》の賜《たまもの》と甲野さんは息を切らして上《のぼ》って行く。
行く路の杉に逼《せま》って、暗きより洩《も》るるがごとく這《は》い出ずる日影蔓《ひかげかずら》の、足に纏《まつ》わるほどに繁きを越せば、引かれたる蔓《つる》の長きを伝わって、手も届かぬに、朽《く》ちかかる歯朶《しだ》の、風なき昼をふらふらと揺《うご》く。
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で天狗《てんぐ》のような声を出す。朽草《くちくさ》の土となるまで積み古《ふ》るしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、蝙蝠傘《かわほりがさ》を力に、天狗《てんぐ》の座《ざ》まで、登って行く。
「善哉善哉《ぜんざいぜんざい》、われ汝《なんじ》を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を放《ほう》り出すと、その上へどさりと尻持《しりもち》を突いた。
「また反吐《へど》か、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜の杖《つえ》で、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ隙間《すきま》に、的※[#「白+樂」、第3水準1−88−69]《てきれき》と近江《おうみ》の湖《うみ》が光った。
「なるほど」と甲野さんは眸《ひとみ》を凝《こ》らす。
鏡を延べたとばかりでは飽《あ》き足らぬ。琵琶《びわ》の銘ある鏡の明かなるを忌《い》んで、叡山の天狗共が、宵《よい》に偸《ぬす》んだ神酒《みき》の酔《えい》に乗じて、曇れる気息《いき》を一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる陽炎《かげろう》を巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷《ひとはけ》に抹《なす》り付けた、瀲※[#「さんずい+艶」、第4水準2−79−53]《れんえん》たる春色が、十里のほかに糢糊《もこ》と棚引《たなび》いている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやっても嬉《うれ》しがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、日々《にちにち》人間と御無沙汰《ごぶさた》になって……」
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を背《うしろ》にして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって懐手《ふところで》をしていちゃ、駄目だよ」
「何を云ってるんだい」
「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に将門《まさかど》が気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《きえん》を吐いたのはどこいらだろう」
「何でも向う側だ。京都を瞰下《みおろ》したんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿だなあ」
「将門か。うん、気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]を吐くより
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