古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は呑気《のんき》で羨《うらやま》しいと思う。――椿の花片《はなびら》がまた一つ落ちた。
一輪挿《いちりんざし》を持ったまま障子を開《あ》けて椽側《えんがわ》へ出る。花は庭へ棄《す》てた。水もついでにあけた。花活《はないけ》は手に持っている。実は花活もついでに棄てるところであった。花活を持ったまま椽側に立っている。檜《ひのき》がある。塀《へい》がある。向《むこう》に二階がある。乾きかけた庭に雨傘が干《ほ》してある。蛇《じゃ》の目の黒い縁《ふち》に落花《らっか》が二片《ふたひら》貼《へばり》ついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
小野さんは重い足を引き擦《ず》ってまた部屋のなかへ這入《はい》って来た。坐らずに机の前に立っている。過去の節穴《ふしあな》がすうと開《あ》いて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃え出した。動いて来る。小野さんは急に腰を屈《かが》めて手を伸ばすや否や封を切った。
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「拝啓|柳暗花明《りゅうあんかめい》の好時節と相
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