》を着けぬ酒は気が抜ける。形式の人は、底のない道義の巵《さかずき》を抱《いだ》いて、路頭に跼蹐《きょくせき》している。
 世界は色の世界である。いたずらに空華《くうげ》と云い鏡花《きょうか》と云う。真如《しんにょ》の実相とは、世に容《い》れられぬ畸形《きけい》の徒が、容れられぬ恨《うらみ》を、黒※[#「甘+舌」、72−14]郷裏《こくてんきょうり》に晴らすための妄想《もうぞう》である。盲人は鼎《かなえ》を撫《な》でる。色が見えねばこそ形が究《きわ》めたくなる。手のない盲人は撫でる事をすらあえてせぬ。ものの本体を耳目のほかに求めんとするは、手のない盲人の所作《しょさ》である。小野さんの机の上には花が活《い》けてある。窓の外には柳が緑を吹く。鼻の先には金縁の眼鏡《めがね》が掛かっている。
 絢爛《けんらん》の域を超《こ》えて平淡に入《い》るは自然の順序である。我らは昔《むか》し赤ん坊と呼ばれて赤いべべ[#「べべ」に傍点]を着せられた。大抵《たいてい》のものは絵画《にしきえ》のなかに生い立って、四条派《しじょうは》の淡彩から、雲谷《うんこく》流の墨画《すみえ》に老いて、ついに棺桶《かんおけ》
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