しやしません」
 黒い影は折れて故《もと》のごとく低くなる。えがらっぽい[#「えがらっぽい」に傍点]咳が二つ三つ出る。
「咳が出ますか」
「から――からっ咳が出て……」と云い懸《か》ける途端《とたん》にまた二つ三つ込み上げる。小野さんは憮然《ぶぜん》として咳の終るを待つ。
「横になって温《あった》まっていらしったら好いでしょう。冷えると毒です」
「いえ、もう大丈夫。出だすと一時《いちじ》いけないんだがね。――年を取ると意気地がなくなって――何でも若いうちの事だよ」
 若いうちの事だとは今まで毎度聞いた言葉である。しかし孤堂先生の口から聞いたのは今が始めてである。骨ばかりこの世に取り残されたかと思う人の、疎《まば》らな髯《ひげ》を風塵《ふうじん》に託して、残喘《ざんせん》に一昔と二昔を、互違《たがいちがい》に呼吸する口から聞いたのは、少なくとも今が始めてである。子《ね》の鐘は陰《いん》に響いてぼうんと鳴る。薄暗い部屋のなかで、薄暗い人からこの言葉を聞いた小野さんは、つくづく若いうちの事だと思った。若いうちは二度とないと思った。若いうち旨《うま》くやらないと生涯《しょうがい》の損だと思った
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