「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと退《ど》いてやれ」
 百折《ももお》れ千折《ちお》れ、五間とは直《すぐ》に続かぬ坂道を、呑気《のんき》な顔の女が、ごめんやすと下りて来る。身の丈《たけ》に余る粗朶《そだ》の大束を、緑《みど》り洩《も》る濃き髪の上に圧《おさ》え付けて、手も懸《か》けずに戴《いただ》きながら、宗近君の横を擦《す》り抜ける。生《お》い茂《しげ》る立ち枯れの萱《かや》をごそつかせた後《うし》ろ姿の眼《め》につくは、目暗縞《めくらじま》の黒きが中を斜《はす》に抜けた赤襷《あかだすき》である。一里を隔《へだ》てても、そこと指《さ》す指《ゆび》の先に、引っ着いて見えるほどの藁葺《わらぶき》は、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、棚引《たなび》く霞《かすみ》は長《とこ》しえに八瀬《やせ》の山里を封じて長閑《のどか》である。
「この辺の女はみんな奇麗《きれい》だな。感心だ。何だか画《え》のようだ」と宗近君が云う。
「あれが大原女《おはらめ》なんだろう」
「なに八瀬女《やせめ》だ」
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度|逢《あ》ったら聞いてみよう」
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となく雅《が》でいい」
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、悌《てい》、だのってさまざまな奴があるから」
「なるほど、蕎麦屋《そばや》に藪《やぶ》がたくさん出来て、牛肉屋がみんないろは[#「いろは」に傍点]になるのもその格だね」
「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号は廃《よ》せばよかった」
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「馬鹿を申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足《あとあし》で石を転《ころ》がしてはいかん。後《あと》から尾《つ》いて行くものが剣呑《けんのん》だ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて枯薄《かれすすき》の中へ仰向《あおむ》けに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を唱《とな》えるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜の杖《つえ》で、甲野さんの寝《ね》ている頭の先をこつこつ敲《たた》く。敲くたびに杖の先が薄を薙《な》ぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
「反吐《へど》が出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも一《ひ》と休息《やすみ》仕《つかまつ》ろう」
 甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も傘《かさ》も坂道に転がしたまま、仰向《あおむ》けに空を眺《なが》めている。蒼白《あおじろ》く面高《おもだか》に削《けず》り成《な》せる彼の顔と、無辺際《むへんざい》に浮き出す薄き雲の※[#「條の木に代えて栩のつくり」、第3水準1−90−31]然《ゆうぜん》と消えて入る大いなる天上界《てんじょうかい》の間には、一塵の眼を遮《さえ》ぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
 宗近君は米沢絣《よねざわがすり》の羽織を脱いで、袖畳《そでだた》みにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う間《ま》に諸肌《もろはだ》を脱いだ。下から袖無《ちゃんちゃん》が露《あら》われる。袖無の裏から、もじゃもじゃした狐《きつね》の皮が食《は》み出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。千羊《せんよう》の皮は一狐《いっこ》の腋《えき》にしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮は斑《まだら》にほうけて、む
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