めるから構わない。好いかね。次に、甲野に貰うか貰わないか聞くのは厭だと云うんだね。兄さんにはその理窟《りくつ》がさらに解《げ》せないんだが、それも、それでよしとするさ。――聞くのは厭だとして、もし甲野が貰うと云いさえすれば行っても好いんだろう。――なに金や家はどうでも構わないさ。一文無《いちもんなし》の甲野のところへ行こうと云やあ、かえって御前の名誉だ。それでこそ糸公だ。兄さんも阿父《おとっ》さんも故障を云やしない。……」
「御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」
「ハハハハ突然大問題を呈出するね。なぜ」
「なぜでも――もし悪くなると愛想《あいそ》をつかされるばかりですもの。だからいつまでもこうやって阿父様《おとうさま》と兄さんの傍《そば》にいた方が好いと思いますわ」
「阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでも御前といっしょにいたい事はいたいがね。なあ糸公、そこが問題だ。御嫁に行ってますます人間が上等になって、そうして御亭主に可愛がられれば好いじゃないか。――それよりか実際問題が肝要だ。そこでね、さっきの話だが兄さんが受合ったら好いだろう」
「何を」
「甲野に聞くのは厭だと、と云って甲野の方から御前を貰いに来るのはいつの事だか分らずと……」
「いつまで待ったって、そんな事があるものですか。私には欽吾さんの胸の中がちゃんと分っています」
「だからさ、兄さんが受合うんだよ。是非甲野にうんと云わせるんだよ」
「だって……」
「何云わせて見せる。兄さんが責任をもって受合うよ。なあに大丈夫だよ。兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。すると当分糸公にも逢《あ》えないから、平生《へいぜい》親切にしてくれた御礼に、やってやるよ。――狐の袖無《ちゃんちゃん》の御礼に。ねえ好いだろう」
 糸子は何とも答えなかった。下で阿父《おとっ》さんが謡《うたい》をうたい出す。
「そら始まった――じゃ行って来るよ」と宗近君は中二階《ちゅうにかい》を下りる。

        十七

 小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底を鉄軌《レエル》が通る。高い土手は春に籠《こも》る緑を今やと吹き返しつつ、見事なる切り岸を立て廻して、丸い屏風《びょうぶ》のごとく弧形に折れて遥《はる》かに去る。断橋《だんきょう》は鉄軌《レエル》を高きに隔つる事|丈《じょう》を重ねて十に至って南より北に横ぎる。欄に倚《よ》って俯《ふ》すとき広き両岸の青《せい》を極《きわ》めつくして、始めて石垣に至る。石垣を底に見下《みおろ》して始めて茶色の路《みち》が細く横《よこた》わる。鉄軌は細い路のなかに細く光る。――二人は断橋の上まで来て留《とま》った。
「いい景色だね」
「うん、ええ景色じゃ」
 二人は欄に倚《よ》って立った。立って見る間《ま》に、限りなき麦は一分《いちぶ》ずつ延びて行く。暖たかいと云わんよりむしろ暑い日である。
 青蓆《あおむしろ》をのべつに敷いた一枚の果《はて》は、がたりと調子の変った地味な森になる。黒ずんだ常磐木《ときわぎ》の中に、けばけばしくも黄を含む緑の、粉《こ》となって空に吹き散るかと思われるのは、樟《くす》の若葉らしい。
「久しぶりで郊外へ来て好い心持だ」
「たまには、こう云う所も好《え》えな。僕はしかし田舎《いなか》から帰ったばかりだからいっこう珍しゅうない」
「君はそうだろう。君をこんな所へ連れて来たのは少し気の毒だったね」
「なに構わん。どうせ遊《あす》んどるんだから。しかし人間も遊んどる暇があるようでは駄目じゃな、君。ちっとなんぞ金儲《かねもうけ》の口はないかい」
「金儲は僕の方にゃないが、君の方にゃたくさんあるだろう」
「いや近頃は法科もつまらん。文科と同じこっちゃ、銀時計でなくちゃ通用せん」
 小野さんは橋の手擦《てすり》に背を靠《も》たせたまま、内隠袋《うちがくし》から例の通り銀製の煙草入を出してぱちりと開《あ》けた。箔《はく》を置いた埃及煙草《エジプトたばこ》の吸口が奇麗に並んでいる。
「一本どうだね」
「や、ありがとう。大変立派なものを持っとるの」
「貰い物だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後で、また見えない所へ投げ込んだ。
 二人の煙はつつがなく立ち騰《のぼ》って、事なき空に入る。
「君は始終《しじゅう》こんな上等な煙草を呑《の》んどるのか。よほど余裕があると見えるの。少し貸さんか」
「ハハハハこっちが借りたいくらいだ」
「なにそんな事があるものか。少し貸せ。僕は今度国へ行ったんで大変|銭《ぜに》がいって困っとるところじゃ」
 本気に云っているらしい。小野さんの煙草の煙がふうと横に走った。
「どのくらい要《い》るのかね」
「三十円でも二十円でも
前へ 次へ
全122ページ中100ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング