財産はまあいいとして、――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。すると一《はじめ》さんへは上げられませんと、こう御叔母《おば》さんが云うんだよ。もっともだ。つまり甲野のわがままで兄さんの方が破談になると云う始末さ」
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に論理的《ロジカル》に来たね。だってつまらんじゃないか、当然相続している財産を捨てて」
「だって厭《いや》なら仕方がないわ」
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに断々乎《だんだんこ》としているね」
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを皆《みんな》が病気にするのは、皆の方が間違っているんです」
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が棄《す》てるんでしょう」

「そりゃごもっともだがね……」
「要《い》らないから棄てるんでしょう」
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。負惜《まけおし》みや面当《つらあて》じゃありません」
「糸公、御前は甲野の知己《ちき》だよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘を吐《つ》くのは大嫌《だいきらい》です」

「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が家《うち》を出ても出なくっても、財産をやってもやらなくっても、御前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね厭《いや》かい」
「厭だって……」とと言い懸《か》けて糸子は急に俯向《うつむ》いた。しばらくは半襟《はんえり》の模様を見詰めているように見えた。やがて瞬《しばたた》く睫《まつげ》を絡《から》んで一雫《ひとしずく》の涙がぽたりと膝《ひざ》の上に落ちた。
「糸公、どうしたんだ。今日は天候|劇変《げきへん》で兄さんに面喰《めんくら》わしてばかりいるね」
 答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた二雫《ふたしずく》落ちた。宗近君は親譲の背広《せびろ》の隠袋《かくし》から、くちゃくちゃの手巾《ハンケチ》をするりと出した。
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を覗《のぞ》き込む。
「糸公|厭《いや》なのかい」
 糸子は無言のまま首を掉《ふ》った。
「じゃ、行く気だね」
 今度は首が動かない。
 宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、身体《からだ》だけを故《もと》へ戻す。
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
 糸子はようやく手巾を取上げる。粗《あら》い銘仙《めいせん》の膝が少し染《しみ》になった。その上へ、手巾の皺《しわ》を叮嚀《ていねい》に延《の》して四つ折に敷いた。角《かど》をしっかり抑えている。それから眼を上げた。眼は海のようである。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのは廃《よ》してちょうだい」
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつの間《ま》に、そう硬くなったんだろう。――糸公、兄さんはね、藤尾さんを貰うために、御前を甲野にやろうなんて利己主義で云ってるんじゃないよ。今のところじゃ、ただ御前の事ばかり考えて相談しているんだよ」
「そりゃ分っていますわ」
「そこが分りさえすれば、後《あと》が話がし好い。それでと、御前は甲野を嫌ってるんじゃなかろう。――よし、それは兄さんがそう認
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