、阿父様《おとうさま》がそんな事をおっしゃるもんですか」
「そうかい。だって、人が来ると読み掛けた本を伏せて、枡落《ますおと》し見たように一生懸命におさえているところをもって見ると、阿父さんの云うところもまんざら嘘とは思えないじゃないか」
「嘘ですよ。嘘だって云うのに、あなたもよっぽど卑劣な方ね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の売国奴《ばいこくど》じゃないかハハハハ」
「だって人の云う事を信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せて上げましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
糸子は抑えた本を袖《そで》で隠さんばかりに、机から手本《てもと》へ引き取って、兄の見えぬように帯の影に忍ばした。
「掏《す》り替《か》えちゃいけないぜ」
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
糸子は兄の眼を掠《かす》めて、長い袖の下に隠した本を、しきりに細工していたが、やがて
「ほら」と上へ出す。
両手で叮嚀《ていねい》に抑えた頁《ページ》の、残る一寸角《いっすんかく》の真中に朱印が見える。
「見留《みとめ》じゃないか。なんだ――甲野」
「分ったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上は何とも云えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公御前今年|幾歳《いくつ》になるね」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ないだって区役所へ行きゃ、すぐ分る事だが、ちょいと参考のために聞いて見るんだよ。隠さずに云う方が御前の利益だ」
「隠さずに云う方がだって――何だか悪い事でもしたようね。私《わたし》厭《いや》だわ、そんなに強迫されて云うのは」
「ハハハハさすが哲学者の御弟子だけあって、容易に権威に服従しないところが感心だ。じゃ改めて伺うが、取って御幾歳《おいくつ》ですか」
「そんな茶化《ちゃか》したって、誰が云うもんですか」
「困ったな。叮嚀《ていねい》に云えば云うで怒るし。――一だったかね。二かい」
「おおかたそんなところでしょう」
「判然しないのか。自分の年が判然しないようじゃ、兄さんも少々心細いな。とにかく十代じゃないね」
「余計な御世話じゃありませんか。人の年齢《とし》なんぞ聞いて。――それを聞いて何になさるの」
「なに別の用でもないが、実は糸公を御嫁にやろうと思ってさ」
冗談半分に相手になって、調戯《からかわ》れていた妹の様子は突然と変った。熱い石を氷の上に置くと見る見る冷《さ》めて来る。糸子は一度に元気を放散した。同時に陽気な眼を陰に俯《ふ》せて、畳みの目を勘定《かんじょう》し出した。
「どうだい、御嫁は。厭《いや》でもないだろう」
「知らないわ」と低い声で云う。やっぱり下を向いたままである。
「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、御前が行くんだ」
「行くって云いもしないのに」
「じゃ行かないのか」
糸子は頭《かぶり》を竪《たて》に振った。
「行かない? 本当に」
答はなかった。今度は首さえ動かさない。
「行かないとなると、兄さんが切腹しなけりゃならない。大変だ」
俯向《うつむ》いた眼の色は見えぬ。ただ豊《ゆたか》なる頬を掠《かす》めて笑の影が飛び去った。
「笑い事じゃない。本当に腹を切るよ。好いかね」
「勝手に御切んなさい」と突然顔を上げた。にこにこと笑う。
「切るのは好いが、あんまり深刻だからね。なろう事ならこのまんまで生きている方が、御互に便利じゃないか。御前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたって、つまらないだろう」
「誰もつまると云やしないわ」
「だから兄さんを助けると思ってうんと御云い」
「だって訳も話さないで、藪《やぶ》から棒《ぼう》にそんな無理を云ったって」
「訳は聞《きき》さえすれば、いくらでも話すさ」
「好くってよ、訳なんか聞かなくっても、私御嫁なんかに行かないんだから」
「糸公御前の返事は鼠花火《ねずみはなび》のようにくるくる廻っているよ。錯乱体《さくらんたい》だ」
「何ですって」
「なに、何でもいい、法律上の術語だから――それでね、糸公、いつまで行っても埓《らち》が明かないから、一《ひ》と思《おもい》に打ち明けて話してしまうが、実はこうなんだ」
「訳は聞いても御嫁にゃ行かなくってよ」
「条件つきに聞くつもりか。なかなか狡猾《こうかつ》だね。――実は兄さんが藤尾さんを御嫁に貰おうと思うんだがね」
「まだ」
「まだって今度《こんだ》が始《はじめ》てだね」
「だけれど、藤尾さんは御廃《およ》しなさいよ。藤尾さんの方で来たがっていないんだから」
「御前この間もそんな事を云ったね」
「ええ、だって、厭《いや》がってるものを貰わなくっても好いじゃありませんか。ほかに女がいくらでも有るのに」
「そりゃ大いにごもっともだ。厭なものを強請《ねだ》るなんて卑怯な兄さんじゃない。糸公の威信にも
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