それで済ます女ではない。
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに嫉妬《しっと》なんて、そんなものは、今だって……」
「有りますよ」
女の声は静かなる春風《はるかぜ》をひやりと斬《き》った。詩の国に遊んでいた男は、急に足を外《はず》して下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高い崖《がけ》の上から、こちらを見下《みおろ》している。自分をこんな所に蹴落《けおと》したのは誰だと考える暇もない。
「清姫《きよひめ》が蛇《じゃ》になったのは何歳《いくつ》でしょう」
「左様《さよう》、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」
「安珍《あんちん》は」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは御何歳《おいくつ》でしたかね」
「私《わたし》ですか――私はと……」
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と御同《おな》い年《どし》でした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど老《ふ》けて見えますよ」
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何か奢《おご》りましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
「可愛想《かわいそう》に」
「可愛らしいんですよ」
女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の極《きわ》まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは固《もと》より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必《かなら》ず女である。男は必ず負ける。具象《ぐしょう》の籠《かご》の中に飼《か》われて、個体の粟《あわ》を喙《ついば》んでは嬉しげに羽搏《はばたき》するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音《ね》を競うものは必ず斃《たお》れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き損《そこ》ねた。
「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍《あんちん》のようなの」
「安珍は苛《ひど》い」
許せと云わぬばかりに、今度は受け留《と》めた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が御厭《おいや》なの」
「私《わたし》は安珍のように逃げやしません」
これを逃げ損ねの受太刀《うけだち》と云う。坊っちゃんは機《き》を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のように追《お》っ懸《か》けますよ」
男は黙っている。
「蛇《じゃ》になるには、少し年が老《ふ》け過ぎていますかしら」
時ならぬ春の稲妻《いなずま》は、女を出でて男の胸をするりと透《とお》した。色は紫である。
「藤尾《ふじお》さん」
「何です」
呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は緑《みど》り濃き植込に隔《へだ》てられて、往来に鳴る車の響さえ幽《かす》かである。寂寞《せきばく》たる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶縁《ちゃべり》の畳を境に、二尺を隔《へだ》てて互に顔を見合した時、社会は彼らの傍《かたえ》を遠く立ち退《の》いた。救世軍はこの時太鼓を敲《たた》いて市中を練り歩《あ》るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息《いき》を引き取ろうとしている。露西亜《ロシア》では虚無党《きょむとう》が爆裂弾を投げている。停車場《ステーション》では掏摸《すり》が捕《つら》まっている。火事がある。赤子《あかご》が生れかかっている。練兵場《れんぺいば》で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄《あに》さんと宗近君は叡山《えいざん》に登っている。
花の香《か》さえ重きに過ぐる深き巷《ちまた》に、呼び交《か》わしたる男と女の姿が、死の底に滅《め》り込む春の影の上に、明らかに躍《おど》りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来《きた》る心臓の扉《とびら》は、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女《なんにょ》を、躍然と大空裏《たいくうり》に描《えが》き出している。二人の運命はこの危うき刹那《せつな》に定《さだ》まる。東か西か、微塵《みじん》だに体《たい》を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃
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