、反吐《へど》でも吐く方が哲学者らしいね」
「哲学者がそんなものを吐くものか」
「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで達磨《だるま》だね」
「あの煙《けぶ》るような島は何だろう」
「あの島か、いやに縹緲《ひょうびょう》としているね。おおかた竹生島《ちくぶしま》だろう」
「本当かい」
「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、質《もの》さえたしかなら構わない主義だ」
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死と云う事だけが真《まこと》だよ」
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気《うわき》はなかなかやまないものだ」
「やまなくって好いから、突き当るのは真《ま》っ平《ぴら》御免《ごめん》だ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
「小刀細工《こがたなざいく》の好《すき》な人間がさ」
山を下りて近江《おうみ》の野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄り付けぬ遠くに眺《なが》めているのが甲野さんの世界である。
二
紅《くれない》を弥生《やよい》に包む昼|酣《たけなわ》なるに、春を抽《ぬき》んずる紫《むらさき》の濃き一点を、天地《あめつち》の眠れるなかに、鮮《あざ》やかに滴《した》たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも艶《あでやか》に眺《なが》めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢《びん》の上には、玉虫貝《たまむしかい》を冴々《さえさえ》と菫《すみれ》に刻んで、細き金脚《きんあし》にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸《ひとみ》のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴《はんてき》のひろがりに、一瞬の短かきを偸《ぬす》んで、疾風の威《い》を作《な》すは、春にいて春を制する深き眼《まなこ》である。この瞳《ひとみ》を遡《さかのぼ》って、魔力の境《きょう》を窮《きわ》むるとき、桃源《とうげん》に骨を白うして、再び塵寰《じんかん》に帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊《もこ》たる夢の大いなるうちに、燦《さん》たる一点の妖星《ようせい》が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉《まゆ》近く逼《せま》るのである。女は紫色の着物を着ている。
静かなる昼を、静かに栞《しおり》を抽《ぬ》いて、箔《はく》に重き一巻を、女は膝の上に読む。
[#ここから1字下げ]
「墓の前に跪《ひざま》ずいて云う。この手にて――この手にて君を埋《うず》め参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓を掃《はら》い、この手にて香《こう》を焚《た》くべき折々の、長《とこ》しえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶《ばくや》も我らを割《さ》き難きに、死こそ無惨《むざん》なれ。羅馬《ロウマ》の君は埃及《エジプト》に葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬に埋《うず》められんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、憂《う》きわれに拒《こば》める、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、情《なさけ》だにあらば、羅馬の神は、よも生きながらの辱《はずかしめ》に、市《いち》に引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君が仇《あだ》なる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫《えいごう》に隠したまえ。」
[#ここで字下げ終わり]
女は顔を上げた。蒼白《あおしろ》き頬《ほお》の締《しま》れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重《ひとえ》の底に、余れる何物かを蔵《かく》せるがごとく、蔵せるものを見極《みき》わめんとあせる男はことごとく虜《とりこ》となる。男は眩《まばゆ》げに半《なか》ば口元を動かした。口の居住《いずまい》の崩《くず》るる時、この人の意志はすでに相手の餌食《えじき》とならねばならぬ。下唇《したくちびる》のわざとらしく色めいて、しかも判然《はっき》と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。
女はただ隼《はやぶさ》の空を搏《う》つがごとくちらと眸《ひとみ》を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]頭《あごさき》に飛ばして、泡吹く蟹《かに》と、烏鷺《うろ》を争うは策のもっとも拙《つた》なきものである。風励鼓行《ふうれいここう》して、やむなく城下《じょうか》の誓《ちかい》をなさしむるは策のもっとも凡《ぼん》なるものである。蜜《みつ》を含んで針を吹き、酒を強《し》いて毒を盛るは策のいま
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