君は詰め寄せた。
「日本と露西亜《ロシア》の戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
「無論さ」
「亜米利加《アメリカ》を見ろ、印度《インド》を見ろ、亜弗利加《アフリカ》を見ろ」
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「大概は知らぬ間《ま》に殺されているんだ」
すべてを爪弾《つまはじ》きした甲野さんは杖の先で、とんと石橋《せっきょう》を敲《たた》いて、ぞっとしたように肩を縮める。宗近君はぬっと立ち上がる。
「あれを見ろ。あの堂を見ろ。峩山《がざん》と云う坊主は一椀の托鉢《たくはつ》だけであの本堂を再建したと云うじゃないか。しかも死んだのは五十になるか、ならんうちだ。やろうと思わなければ、横に寝《ね》た箸《はし》を竪《たて》にする事も出来ん」
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角を指す。
世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右に颯《さっ》と開《ひら》いた中を、――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。小供が通る。嵯峨《さが》の春を傾けて、京の人は繽紛絡繹《ひんぷんらくえき》と嵐山《らんざん》に行く。「あれだ」と甲野さんが云う。二人はまた色の世界に出た。
天竜寺《てんりゅうじ》の門前を左へ折れれば釈迦堂《しゃかどう》で右へ曲れば渡月橋《とげつきょう》である。京は所の名さえ美しい。二人は名物と銘打った何やらかやらをやたらに並べ立てた店を両側に見て、停車場《ステーション》の方へ旅衣《たびごろも》七日《なのか》余りの足を旅心地に移す。出逢うは皆京の人である。二条《にじょう》から半時《はんとき》ごとに花時を空《あだ》にするなと仕立てる汽車が、今着いたばかりの好男子好女子をことごとく嵐山の花に向って吐き送る。
「美しいな」と宗近君はもう天下の大勢《たいせい》を忘れている。京ほどに女の綺羅《きら》を飾る所はない。天下の大勢も、京女《きょうおんな》の色には叶《かな》わぬ。
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だと云うんだ」
「しかし都踊はいいよ」
「悪《わ》るくないね。何となく景気がいい」
「いいえ。あれを見るとほとんど異性《セックス》の感がない。女もあれほどに飾ると、飾りまけがして人間の分子が少なくなる」
「
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