人の眼はことごとく自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。妄《みだ》りに踊り狂うとき、人をして生の境を踏み外《はず》して、死の圜内《けんない》に入らしむる事を知る。人もわれももっとも忌《い》み嫌える死は、ついに忘るべからざる永劫《えいごう》の陥穽《かんせい》なる事を知る。陥穽の周囲に朽《く》ちかかる道義の縄は妄《みだ》りに飛び超《こ》ゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」
 二ヵ月|後《ご》甲野さんはこの一節を抄録して倫敦《ロンドン》の宗近君に送った。宗近君の返事にはこうあった。――
「ここでは喜劇ばかり流行《はや》る」



底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年4月3日公開
2004年1月10日修正
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