しいから、こんな悪戯《いたずら》をしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分るだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」
「そうだ」
呆然《ぼうぜん》として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬《かた》くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床《ゆか》の上に倒れた。
十九
凝《こ》る雲の底を抜いて、小一日《こいちにち》空を傾けた雨は、大地の髄《ずい》に浸《し》み込むまで降って歇《や》んだ。春はここに尽きる。梅に、桜に、桃に、李《すもも》に、かつ散り、かつ散って、残る紅《くれない》もまた夢のように散ってしまった。春に誇るものはことごとく亡《ほろ》ぶ。我《が》の女は虚栄の毒を仰いで斃《たお》れた。花に相手を失った風は、いたずらに亡《な》き人の部屋に薫《かお》り初《そ》める。
藤尾は北を枕に寝る。薄く掛けた友禅《ゆうぜん》の小夜着《こよぎ》には片輪車《かたわぐるま》を、浮世らしからぬ恰好《かっこう》に、染め抜いた。上には半分ほど色づいた蔦《つた》が一面に這《は》いかかる。淋《さみ》しき模様である。動く気色《けしき》もない。敷布団は厚い郡内《ぐんない》を二枚重ねたらしい。塵《ちり》さえ立たぬ敷布《シート》を滑《なめら》かに敷き詰めた下から、粗《あら》い格子《こうし》の黄と焦茶《こげちゃ》が一本ずつ見える。
変らぬものは黒髪である。紫《むらさき》の絹紐《リボン》は取って捨てた。有るたけは、有るに任せて枕に乱した。今日《きょう》までの浮世と思う母は、櫛《くし》の歯も入れてやらぬと見える。乱るる髪は、純白《まっしろ》な敷布《シート》にこぼれて、小夜着《こよぎ》の襟《えり》の天鵞絨《びろうど》に連《つら》なる。その中に仰向《あおむ》けた顔がある。昨日《きのう》の肉をそのままに、ただ色が違う。眉は依然として濃い。眼はさっき母が眠らした。眠るまで母は丹念に撫《さす》ったのである。――顔よりほかは見えぬ。
敷布の上に時計がある。濃《こまやか》に刻んだ七子《ななこ》は無惨《むざん》に潰《つぶ》れてしまった。鎖だけはたしかである。ぐるぐると両蓋《りょうぶた》の縁《ふち》を巻いて、黄金《こがね》の光を五分《ごぶ》ごとに曲折する真中に、柘榴珠《ざくろだま》が、へしゃげた蓋の眼《まなこ》のごとく乗っている。
逆
前へ
次へ
全244ページ中238ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング