帰る。レオパルジの隣にあった黄表紙《きびょうし》の日記を持って煖炉の前まで戻って来た。親指を抑えにして小口を雨のように飛ばして見ると、黒い印気《インキ》と鼠《ねずみ》の鉛筆が、ちら、ちら、ちらと黄色い表紙まで来て留った。何を書いたものやらいっこう要領を得ない。昨夕《ゆうべ》寝る前に書き込んだ、
[#ここから2字下げ]
|入[#レ]道《みちにいる》無言客《むごんのかく》。|出[#レ]家《いえをいず》有髪僧《うはつのそう》。
[#ここで字下げ終わり]
の一聯が、最後の頁の最後の句である事だけを記憶している。甲野さんは思い切って日記を散らばった紙の上へ乗せた。屈《しゃが》んだ。煖炉敷《ハースラッグ》の前でしゅっと云う音がする。乱れた紙は、静なるうちに、惓怠《けったる》い伸《のび》をしながら、下から暖められて来る。きな臭い煙が、紙と紙の隙間《すきま》を這《は》い上《のぼ》って出た。すると紙は下層《したがわ》の方から動き出した。
「うん、まだ書く事があった」
と甲野さんは膝を立てながら、日記を煙のなかから救い出す。紙は茶に変る。ぼうと音がすると煖炉のうちは一面の火になった。
「おや、どうしたの」
 戸口に立った母は不審そうに煖炉の中を見詰めている。甲野さんは声に応じて体《たい》を斜めに開く。袂《たもと》の先に火を受けて母と向き合った。
「寒いから部屋を煖《あたた》めます」と云ったなり、上から煖炉の中を見下《みおろ》した。火は薄い水飴《みずあめ》の色に燃える。藍《あい》と紫《むらさき》が折々は思い出したように交って煙突の裏《うち》へ上《のぼ》って行く。
「まあ御あたんなさい」
 折から風に誘われた雨が四五筋、窓硝子《まどガラス》に当って砕けた。
「降り出しましたね」
 母は返事をせずに三足《みあし》ほど部屋の中に進んで来た。すかすように欽吾を見て、
「寒ければ、石炭を焼《た》かせようか」と云った。
 めらめらと燃えた火は、揺《ゆら》ぐ紫の舌の立ち騰《のぼ》る後《あと》から、ぱっと一度に消えた。煖炉の中は真黒である。
「もうたくさんです。もう消えました」
 云い終った欽吾は、煖炉に背中を向けた。時に亡父《おやじ》の眼玉が壁の上からぴかりと落ちて来た。雨の音がざあっとする。
「おやおや、手紙が大変散らばって――みんな要《い》らないのかい」
 欽吾は床《ゆか》の上を眺《なが》めた。裂
前へ 次へ
全244ページ中230ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング