いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――
「こう云う危《あや》うい時に、生れつきを敲《たた》き直して置かないと、生涯《しょうがい》不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目《まじめ》になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮《かわ》だけで生きている人間は、土《つち》だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後《あと》は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」
 小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯|真面目《まじめ》の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺《ほら》じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車で馳《か》けつけやしない。そうじゃないか、小野さん」
 宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据《すわ》る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存《げんそん》していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者《こうしゃ》に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾《いかん》なく世の中へ敲《たた》きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日《きのう》真面目になった。
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