小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とを眼《ま》のあたりに見て、眼のあたりに見たものを未来に延長《ひきのば》して想像の鏡に思い浮べて眺《なが》めると二《ふ》た通《とおり》になる。自分がこの鏡のなかに織り込まれているときは、春である、豊である、ことごとく幸福である。鏡の面《おもて》から自分の影を拭き消すと闇《やみ》になる、暮になる。すべてが悲惨《みじめ》になる。この一団の精神から、自分の魂だけを切り離す談判をするのは、小《ち》さき竈《かまど》に立つべき煙を予想しながら薪《たきぎ》を奪うと一般である。忍びない。人は眼を閉《つぶ》って苦《にが》い物を呑《の》む。こんな絡《から》んだ縁をふつりと切るのに想像の眼を開《あ》いていては出来ぬ。そこで小野さんは眼の閉《つぶ》れた浅井君を頼んだ。頼んだ後《あと》は、想像を殺してしまえば済む。と覚束《おぼつか》ないが決心だけはした。しかし犬一匹でも殺すのは容易な事ではない。持って生れた心の作用を、不都合なところだけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋策《ろうさく》である。人間の心は原稿紙とは違う。小野さんがこの決心をしたその晩から想像力は復活した。――
瘠《や》せた頬を描《えが》く。落ち込んだ眼を描く。縺《もつ》れた髪を描く。虫のような気息《いき》を描く。――そうして想像は一転する。
血を描く。物凄《ものすご》き夜と風と雨とを描く。寒き灯火《ともしび》を描く。白張《しらはり》の提灯《ちょうちん》を描く。――ぞっとして想像はとまる。
想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出る快《こころよ》からぬ結果を思い出す。結果はまたも想像の力で曲々《きょくきょく》の波瀾を起す。――良心を質に取られる。生涯受け出す事が出来ぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、そうして腰が曲る。寝覚《ねざめ》がわるい。社会が後指《うしろゆび》を指《さ》す。
惘然《もうぜん》として煙草の煙を眺めている。恩賜の時計は一秒ごとに約束の履行を促《うな》がす。橇《そり》の上に力なき身を託したようなものである。手を拱《こま》ぬいていれば自然と約束の淵《ふち》へ滑《すべ》り込む。「時」の橇《そり》ほど正確に滑るものはない。
「やっぱり行く事にするか。後暗《うしろぐら》い行《おこない》さえなければ行
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