》んだ眼が煮染《にじ》んで来た。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。
「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな精《くわ》しい事情は知らんのですから」
「いや、話してくれないでも好い。厭《いや》だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家《じか》に訳を話すが好い」
「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」
「小夜の考《かんがえ》ぐらい小野には分っているはずださ」と先生は平手《ひらて》で頬を打つように、ぴしゃりと云った。
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
襖《ふすま》の向側《むこうがわ》で、袖《そで》らしいものが唐紙《からかみ》の裾《すそ》にあたる音がした。
「そう返事をして差支《さしつかえ》ないだろうね」
答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中に埋《うず》めた声がした。
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」
「とにかく……そう小野に云いましょう」
浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て蕎麦屋《そばや》の行灯《あんどう》を右に通へ出て、電車のある所まで来ると突然飛び乗った。
突然電車に乗った浅井君は約一時間|余《よ》の後《のち》、ぶらりと宗近《むねちか》家の門からあらわれた。つづいて車が二挺出る。一挺は小野の下宿へ向う。一挺は孤堂先生の家に去る。五十分ほど後《おく》れて、玄関の松の根際に梶棒《かじぼう》を上げた一挺は、黒い幌《ほろ》を卸《おろ》したまま、甲野《こうの》の屋敷を指して馳《か》ける。小説はこの三挺の使命を順次に述べなければならぬ。
宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、車輪《は》の音《おと》を留めた時、小野さんはちょうど午飯《ひるめし》を済ましたばかりである。膳《ぜん》が出ている。飯櫃《めしびつ》も引かれずにある。主人公は机の前へ座を移
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