らさもよう》の襟飾《えりかざり》と――襟飾は例に因《よ》って襟の途中まで浮き出している。――それから親譲の背広《せびろ》とをじっと眺《なが》めている。
「何を見ているんだ」
「いや」と云ったままやっぱり眺めている。
「御叔母《おば》さんに話して来《こ》ようか」
 今度はいや[#「いや」に傍点]とも何とも云わずに眺めている。宗近君は椅子から腰を浮かしかかる。
「廃《よ》すが好い」
 洋卓の向側《むこうがわ》から一句を明暸《めいりょう》に云い切った。
 徐《おもむろ》に椅子を離れた長髪の人は右の手で額を掻《か》き上げながら、左の手に椅子の肩を抑《おさ》えたまま、亡《な》き父の肖像画の方に顔を向けた。
「母に話すくらいなら、あの肖像に話してくれ」
 親譲りの背広を着た男は、丸い眼を据《す》えて、室《へや》の中に聳《そび》える、漆《うるし》のような髪の主《あるじ》を見守った。次に丸い眼を据えて、壁の上にある故人の肖像を見守った。最後に漆の髪の主と、故人の肖像とを見較《みくら》べた。見較べてしまった時、聳えたる人は瘠《や》せた肩を動かして、宗近君の頭の上から云う。――
「父は死んでいる。しかし活《い》きた母よりもたしかだよ。たしかだよ」
 椅子に倚る人の顔は、この言葉と共に、自《おのず》からまた画像の方に向った。向ったなりしばらくは動かない。活きた眼は上から見下《みおろ》している。
 しばらくして、椅子に倚る人が云う。――
「御叔父《おじ》さんも気の毒な事をしたなあ」
 立つ人は答えた。――
「あの眼は活きている。まだ活きている」
 言い終って、部屋の中を歩き出した。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」
 席を立った宗近君は、横から来て甲野さんの手を取るや否や、明け放った仏蘭西窓《フランスまど》を抜けて二段の石階を芝生《しばふ》へ下《くだ》る。足が柔かい地に着いた時、
「いったいどうしたんだ」と宗近君が聞いた。
 芝生は南に走る事十間余にして、高樫《たかがし》の生垣に尽くる。幅は半ばに足らぬ。繁《しげ》き植込に遮《さえ》ぎられた奥は、五坪《いつつぼ》ほどの池を隔てて、張出《はりだし》の新座敷には藤尾の机が据えてある。
 二人は緩《ゆる》き歩調に、芝生を突き当った。帰りには二三間|迂回《うねっ》て、植込の陰を書斎の方《かた》へ戻って来た。双方共無言である。足並は偶然にも揃
前へ 次へ
全244ページ中208ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング