だろう」
「そう、相手が世話になった先生じゃからな」
「それに僕の方から云うと、今ちょうど博士論文を書きかけている最中だから、そんな話を持ち込まれると余計困るんだ」
「博士論文をまだ書いとるか、えらいもんじゃな」
「えらい事もない」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とても出来ん」
「そりゃどうでも好《い》いが、――それでね、今云う通りの事情だから、せっかくの厚意はありがたいけれども、まあここのところはいったん断わりたいと思うんだね。しかし僕の性質じゃ、とても先生に逢《あ》うと気の毒で、そんな強い事が云えそうもないから、それで君に頼みたいと云う訳だが。どうだね、引き受けてくれるかい」
「そうか、訳ない。僕が先生に逢《お》うてよく話してやろう」
浅井君は茶漬を掻《か》き込《こ》むように容易《たやす》く引き受けた。注文通りに行った小野さんは中休みに一二歩前へ移す。そうして云う。――
「その代り先生の世話は生涯《しょうがい》する考だ。僕もいつまでもこんなにぐずぐずしているつもりでもないから――実のところを云うと先生も故《もと》のように経済が楽じゃないようだ。だからなお気の毒なのさ。今度の相談もただ結婚と云う単純な問題じゃなくって、それを方便にして、僕の補助を受けたいような素振《そぶり》も見えたくらいだ。だから、そりゃやるよ。飽《あ》くまでも先生のために尽すつもりだ。だが結婚したから尽す、結婚せんから尽さないなんて、そんな軽薄な料簡《りょうけん》は少しもこっちにゃないんだから――世話になった以上はどうしたって世話になったのさ。それを返してしまうまではどうしたって恩は消えやしないからな」
「君は感心な男だ。先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「よく僕の意志が徹するように云ってくれたまえ。誤解が出来るとまた後《あと》が困るから」
「よし。感情を害せんようにの。よう云うてやる。その代り十円貸すんぜ」
「貸すよ」と小野さんは笑ながら答えた。
錐《きり》は穴を穿《うが》つ道具である。縄は物を括《くく》る手段である。浅井君は破談を申し込む器械である。錐でなくては松板を潜《くぐ》り抜けようと企《くわだ》てるものはない。縄でなくては栄螺《さざえ》を取り巻く覚悟はつかぬ。浅井君にして始めてこの談判を、風呂に行く気で、引き受ける事が出来る。小野さんは才人である。よく道具を用いるの法を心得てい
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