財産はまあいいとして、――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。すると一《はじめ》さんへは上げられませんと、こう御叔母《おば》さんが云うんだよ。もっともだ。つまり甲野のわがままで兄さんの方が破談になると云う始末さ」
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に論理的《ロジカル》に来たね。だってつまらんじゃないか、当然相続している財産を捨てて」
「だって厭《いや》なら仕方がないわ」
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに断々乎《だんだんこ》としているね」
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを皆《みんな》が病気にするのは、皆の方が間違っているんです」
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が棄《す》てるんでしょう」
「そりゃごもっともだがね……」
「要《い》らないから棄てるんでしょう」
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。負惜《まけおし》みや面当《つらあて》じゃありません」
「糸公、御前は甲野の知己《ちき》だよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘を吐《つ》くのは大嫌《だいきらい》です」
「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が家《うち》を出ても出なくっても、財産をやってもやらなくっても、御前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね厭《いや》かい」
「厭だって……」とと言い懸《か》けて糸子は急に俯向《うつむ》いた。しばらくは半襟《はんえり》の模様を見詰めているように
前へ
次へ
全244ページ中197ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング