の顔を眺めた。やがて、
「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」と慇懃《いんぎん》に云う。
「それほどに御云いなら、仕方がない」
母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」
「ええ」
「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」
「小野をですか」と云ったぎり、黙った。
「いけまいか」
「いけない事もないでしょう」と緩《ゆっ》くり云う。
「よければ、そうきめようと思うが……」
「好いでしょう」
「好いかい」
「ええ」
「それでようやく安心した」
甲野さんはじっと眼を凝《こ》らして正面に何物をか見詰めている。あたかも前にある母の存在を認めざるごとくである。
「それでようやく――御前どうかおしかい」
「母《おっ》かさん、藤尾は承知なんでしょうね」
「無論知っているよ。なぜ」
甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがて瞬《またたき》を一つすると共に、眼は急に近くなった。
「宗近はいけないんですか」と聞く。
「一《はじめ》かい。本来なら一が一番好いんだけれども。――父《おとっ》さんと宗近とは、ああ云う間柄ではあるしね」
「約束でもありゃしなかったですか」
「約束と云うほどの事はなかったよ」
「何だか父《おとっ》さんが時計をやるとか云った事があるように覚えていますが」
「時計?」と母は首を傾《かた》げた。
「父さんの金時計です。柘榴石《ガーネット》の着いている」
「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
「一《はじめ》はまだ当《あて》にしているようです」
「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」
「時計は今藤尾が預《あずか》っているから、私《わたし》から、よく、そう云って置こう」
「時計もだが、藤尾の事を重《おも》に云ってるんです」
「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」
「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」
「そう云うと私が何だか御前の気に逆《さから》うようで悪いけれども、――そんな約束はまるで覚《おぼえ》がないんだもの」
「はああ。じゃ無いんでしょう」
「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験
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