連れて行って貰うつもりですから」
 藤尾は一さん[#「一さん」に傍点]と云う名前を妙に響かした。
 春の影は傾《かたぶ》く。永き日は、永くとも二人の専有ではない。床に飾ったマジョリカの置時計が絶えざる対話をこの一句にちん[#「ちん」に傍点]と切った。三十分ほどしてから小野さんは門外へ出る。その夜《よ》の夢に藤尾は、驚くうちは楽《たのしみ》がある! 女は仕合《しあわせ》なものだ! と云う嘲《あざけり》の鈴《れい》を聴かなかった。

        十三

 太い角柱を二本立てて門と云う。扉はあるかないか分らない。夜中郵便《やちゅうゆうびん》と書いて板塀《いたべい》に穴があいているところを見ると夜は締《しま》りをするらしい。正面に芝生《しばふ》を土饅頭《どまんじゅう》に盛り上げて市《いち》を遮《さえ》ぎる翠《みどり》を傘《からかさ》と張る松を格《かた》のごとく植える。松を廻れば、弧線を描《えが》いて、頭の上に合う玄関の廂《ひさし》に、浮彫の波が見える。障子は明け放ったままである。呑気《のんき》な白襖《しろぶすま》に舞楽の面ほどな草体を、大雅堂《たいがどう》流の筆勢で、無残《むざん》に書き散らして、座敷との仕切《しきり》とする。
 甲野《こうの》さんは玄関を右に切れて、下駄箱の透《す》いて見える格子《こうし》をそろりと明けた。細い杖《つえ》の先で合土《たたき》の上をこちこち叩《たた》いて立っている。頼むとも何とも云わぬ。無論応ずるものはない。屋敷のなかは人の住む気合《けわい》も見えぬほどにしんとしている。門前を通る車の方がかえって賑《にぎ》やかに聞える。細い杖の先がこちこち鳴る。
 やがて静かなうちで、すうと唐紙《からかみ》が明く音がする。清《きよ》や清やと下女を呼ぶ。下女はいないらしい。足音は勝手の方に近づいて来た。杖の先はこちこちと云う。足音は勝手から内玄関の方へ抜け出した。障子があく。糸子《いとこ》と甲野さんは顔を見合せて立った。
 下女もおり書生も置く身は、気軽く構えても滅多《めった》に取次に出る事はない。出ようと思う間《ま》に、立てかけた膝《ひざ》をおろして、一針でも二針でも縫糸が先へ出るが常である。重たき琵琶《びわ》の抱《だ》き心地と云う永い昼が、永きに堪《た》えず崩れんとするを、鳴く※[#「亡/(虫+虫)」、第3水準1−91−58]《あぶ》にうっとりと夢を支
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